人生を俯瞰する歌が持つカタルシス効果
高校2年のとき大嶋渚監督作品『戦場のメリークリスマス』を映画館で観た。1983年のことだ。まだ家庭用ビデオデッキがほとんど普及していない時代。映画は映画館で観るしかなかったわけだねー(遠い目)
この映画は、太平洋戦争中の日本軍の捕虜収容所で起きた、看守と捕虜の間の「恋愛」を描いている。劇中、捕虜となっているイギリス軍の将兵がスコットランド詩編歌をうたうシーンがある。詩編23編にメロディーを付けたものだ。それを聞きながら不覚にも泣いてしまった。そして、これが映画初出演だったビートたけしの顔面アップのラストシーンの「メリークリスマス!ミスターローレンス」のセリフで大号泣してしまった。なぜだろう、よくわからないけど。。。
そして、それ以来、この詩編歌をうたうと、心がキューっとなる。いまなおそうだ。
今日の聖書の言葉。
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
詩編 23:1 新共同訳
16世紀にスイスのジュネーヴで宗教改革を行ったカルヴァンは、『キリスト教綱要』を書いてプロテスタントの組織神学を確立した。それと同時に、旧約聖書の詩編にメロディーを付けてうたう「詩編歌」(Psalter) を導入することで礼拝を刷新した。それまでは礼拝でうたうのは聖職者と聖歌隊だけだったんだけど、そこに集った会衆も一緒にうたえるようにした。つまり全参加型礼拝にしたってわけ。
このジュネーヴをモデルに宗教改革を進めたスコットランドでは、盛んに詩編歌が作られた。それが「スコットランド詩編歌」(Metrical Psalter) だ。
特に詩編23編はみんなに愛された。だって、それはまさに人生の旅路をうたっているから。なので、いろんな時代のいろんな人が作ったメロディーを付けてうたい継がれている。『戦場のメリークリスマス』で流れたのは「クリモンド」(Crimond) という19世紀のチューンに乗せてうたわれたものだ。
人生のなかで窮地、窮状、窮乏に立たされること。失望し、絶望し、あきらめなければならないこと。あるよねー。祈っても、祈っても、目の前をふさぐ巨石が微動もしなくて、神さまは自分の祈りを聞いてくれない、と思ってしまう瞬間もある。そういう時に、スコットランド詩編歌の詩編23編をうたうと、なんかこう、胸があつくなる。なんでだろう。よくわからないけど。。。
そして、うたっているうちに、だんだん、理知によってではなく、ハートによって、こう思えるようになるんだ。。。いや、大丈夫。神さまは全てを供給し、自分のあらゆる必要を完全に満たすことができる御方だ、って。
もちろん、そう思うことに根拠があるわけじゃないんだけど。でも、そう思える、いや、思えるどころか大胆に確信できる。そういう気持ちになっちゃうんだ。おそるべし、スコットランド詩編歌。。。
この詩編23編がすごいのは、冒頭で人生の前提条件を宣言し、その上で人生の全体の俯瞰を提示し、さらに、人生への超自然的な供給を描き、最後に、人生の終わりの向こう側にある永遠の世界に踏み込んでいくところだ。
その構成は、小聖書のようでもあるし、人生の縮図でもある。
まず、人生の前提条件。。。
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる
次に、人生の全体の俯瞰。。。
主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない
あなたがわたしと共にいてくださる
さらに、人生への超自然的な供給。。。
わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる
最後に、人生の終わりの向こう側にある永遠の世界。。。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう
つまり、この詩編23編をクリモンドに乗せてうたうと、もうね、人生をはじめからおわりまで一回やり切って、臨終の床に着いて、天国で目覚めたところまで行った! みたいな感覚になってしまうのかもしれない。
だからカタルシスというか、魂の浄化を経験することができるのかもしれないねー。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?