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ドアを開ける、開けない、っていう話です。

自分が子どもの頃は玄関のドアに鍵なんかほとんどかけていなかった記憶がある。

別にそれを危ないと思ったこともなかったんじゃないかな。

でも、中学生ぐらいの頃から、いろんな勧誘が増えてきて、めんどくさいから鍵をかけるようになった気がする。

いまはドアに覗き穴がついているのはあたりまえだけど、インターホンのカメラで録画できるのも標準装備になりつつあるよね。

世の中そう簡単に誰に対してもドアを開けるわけにはいかない、っていう空気感なんだろう。

いまの不穏な世界を見たら、危機意識が弱まる方向に行くなんて考えられないから、ドアはどんどん厳重になって行くとしか思えない。

固く閉ざされるドア。そして自分の心。。。

今日の聖書の言葉。

主の名によって来られる方、王に、
祝福があるように。
天には平和、
いと高きところには栄光。
ルカによる福音書 19:38 新共同訳

気軽にドアを開けないというのは、別にいまに始まったことじゃなく、昔からそうだった所もある。

イギリスでは国会の上院議場で女王が施政方針演説をする際に、黒杖官が下院議員を呼び出しに行くことになっている。

黒杖官が下院議場に着くと、ドアは固く閉ざされていて入れない。だから、黒杖官は杖でドアを叩くんだ。でも、なかなか開けてくれない。

ようやくドアが開くと黒杖官は、演説を聞きに上院議場に来い、って告げる。すると下院議員のひとりが冗談を飛ばすことになっている。

すべてこれらは慣習でそうするように決まっているんだ。

これには議会政治の形成の初期に、国王と議会、上院と下院のあいだで流血の対立があった記憶が反映されている。

そういう記憶は政治だけじゃないんだよね。教会にも残っている。

イギリスでは新しい主教が就任するとき、教会に着くとやっぱりドアは固く閉じられている。

だから、主教杖でもってドアを叩くんだ。するとドアをはさんで、おまえは誰だ、合言葉を言え、みたいなやりとりがあって、ようやく開けてもらえる。

いったいどんな忌まわしい記憶があったら、そんなことになるの? って思ってしまうんだけれど。。。

恐ろしいこと、悲しいこと、傷つけられること、だまされること。。。そのことのゆえにドアは固く閉ざされることになってしまう。

もちろん、長い時間の経過とともに、ものごとは良い方向に変わって行くだろう。

でも、記憶のなかからマイナスのイメージが完全に消えるわけではない。

だから、簡単にドアは開けませんよ、というポーズとなって、いまも残っているんだろうね、政治にも、教会にも。

いま、自分だって、いろんなことに対して心のドアを閉じている。そりゃ、そうするしかないような時代の空気だから、しかたがない。

でも、ただひとり、イエスに対してだけは、心のドアをフルにオープンしてウェルカムしたいと思っている。

主の名によって来られる方、王に
祝福があるように
天には平和
いと高きところには栄光

すると、イエスは自分の心のなかに入って来てくれる。

そして、イエスは言うんだ。なんでこんなところに閉じこもっているんだ。そこから出て来なよ。さあ、世界に行こう。怖いことなんか無いから。だって、わたしが一緒にいるんだよ、って。

イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
マルコによる福音書 16:15 新共同訳
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
マタイによる福音書 28:20 新共同訳

さて。イエスに対してドアを開いたけれど、ここから一歩外に出て良いものかどうか。。。おっと。誰かが来たようだ。。。

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