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デスマッチを戦い、倒れながら、勝利者イエスの完コピを目指す。

生きていると、心のなかで戦いを経験するよね。良心と衝動との戦いだ。

良心 vs 衝動

他人の目があれば、ありがたいことにそれが抑止的な環境になってくれる。ありがとう、他人。。。

もちろん、心のなかでは良心と衝動との戦いがある。にもかかわらず、他人の前ではそんなの微塵もない風に正しくふるまう、というか、ふるまえてしまえる。

でも、他人の目が無ければ、ぜんぜん抑止にならないから、ほんとうの自分に直面させられることに。

カーンとゴングがなってリングに上がった良心と衝動の激しい打ち合いの開始。。。

神が世界の後背に身を隠しているのは、きっと、われわれの良心と衝動のリアルな戦いを見たいからだろう。だって、もしイエスが目に見える姿でうちのソファーに座ってたら、その前で絶対カッコつけるじゃん、自分。

本心という言葉がある。あなたの本心は何? みたいな。

本心って、チャンピオンの座みたいなものかもしれない。衝動を打ち負かした良心が「本心」の座を占めたり、逆に、良心を打ち負かした衝動が「本心」の座を占めたり。

何が本心かわからない、というフレーズを聞くけど、「良心 vs 衝動」のデスマッチの結果次第で、本心は変って行くのかもねー。

今日の聖書の言葉。

地の果てまで、戦いを断ち 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
詩編 46:10 新共同訳

いつか、この戦いが終わって、完全な平安を得ることができるんだろうか?

とてもそんな日が来るとは思えない。けど、今日の聖書の言葉は「戦いは終わるよ」という楽観的な希望を示している。

クリスチャンたちのあいだでは7世紀に単意論か両意論かをめぐる神学論争があった。

これは、神であり人であるイエスの人格のなかには、意志がひとつだけあったのか(単意論)? それとも、神としての意志と人としての意志の両方があったのか(両意論)? という議論だ。

いやー、なんで、そんな、どうでも良さそうなこと議論するのよ、ヒマだねー、という感じもしないでもないけど。。。

単意論

もし「単意論」が正しかったと仮定した場合。。。

単意論では、神であり人であるイエスの人格のなかで、神としての意志と人としての意志が完全に統合されて「ひとつ」の意志になっていた、と考える。

つまり、イエスは単一の意志を行使して生きていたことになり、だから、イエスの心にはいかなる戦い、葛藤、苦悶、苦悩も無かったことになる。

そういうイエスは、いまを生きるわれわれ。。。戦い、葛藤、苦悶、苦悩を経験しているわれわれとは一致点がまったくない、別世界を生きる存在になってしまう。

ところが、福音書を見ると、あきらかにイエスは葛藤を経験しているよね。たとえば、ゲッセマネの祈りとか。

両意論

じゃあ、もし「両意論」が正しかったら、どういうことになるんだろう?

両意論では、神であり人であるイエスの人格のなかに、神としての意志と、人としての意志が、並存していた、と考える。

当然のことながら、神としての意志と、人としての意志のあいだに、相違が生じる場面もあったろう。。。あったんじゃないかな。。。いや、あったに違いない。。。

そして、相違する二つの意志のあいだで、戦い、葛藤、苦悶、苦悩があったはずなんだ。それってまさに、われわれが福音書で読んで知ってるイエスの姿だよね。

両意論のイエスは、いまを生きるわれわれ。。。戦い、葛藤、苦悶、苦悩を経験しているわれわれと、完全に一致し、同じ世界を生きていることになるんだ!

イエスの模範

でも、イエスとわれわれの違いも、ある。

イエスは、戦い、葛藤、苦悶、苦悩を経て、決断するんだ。

その決断は、いつも、つねに、たえず、人としてのイエスの意志が、神としてのイエスの意志に服する、という決断だ。

しかも、いやいや決断するのではない。父なる神への深い信頼の内によろこびをもって自分を「明け渡す」決断なんだ。

イエスのこの決断から、イエスの行為が生まれる。そのイエスの行為はいつでも神と隣人に対する「愛」だった。

すると、こういう図式になる。

二つの意志が協働して「愛」という単一の行為が生まれる。それがイエスの人格だ、ということ。

それだけじゃない。そういうイエスは、いまを生きるわれわれに接点があるわけだから、われわれはイエスを自分のうちにコピーすることができる、ということになるんだ。

イエスのようになる

どういうことかというと。。。

自分は、ほんと、ただの人間。イエスみたいな神人ではない。ぜんぜん、そうではない。それどころか、罪人のかしら、だ。

でも、そんな自分をイエスは十字架と復活によって救って、聖霊を注いでくれた。聖霊がいま、自分のうちに宿っていてくれる。

神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。
ヨハネの手紙一 4:13 新共同訳

その聖霊が、神の意志を、自分に示してくれる。それこそが「良心」なんだと思う。

良心を通じて自分は神の意志をいつでも知ることができるんだ。

その一方で、自分には生まれながらに持っている人としての意志も、ある。

こうして、自分のなかに、神の意志と、人の意志が、並存することになるんだ。

良心を通して示される神の意志と、生まれながらに持っている自分の意志。

神の意志(良心)と人の意志(衝動)が異なる場合、それらは、ぶつかりあい、自分は、戦い、葛藤、苦悶、苦悩を経験することになる。。。

おおっ、これって、イエスが経験したことじゃね? イエスって、オレらと同じ戦いを経験したってことだよね! なんか、うれしい(涙)

だからこそ、イエスはわれわれの希望であり模範なんだ。

ひとつの人格のなかで神の意志と人の意志が協働するとき、単一の「愛」という行為が生まれることを、イエスは目に見えるかたちで示してくれた。

自分はイエスのような神人ではない。でも、自分はイエスと同じ構造で生きている。だから、神の意志(良心)と人の意志(衝動)が協働して単一の「愛」という行為を生み出すように、自分も召されていることになるんだ。

わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。
ガラテヤの信徒への手紙 4:19 新共同訳

神の意志と人の意志が協働して単一の「愛」という行為を生み出す。そのためのカギは、イエスが教えてくれたとおり。。。

自分の意志を、神の意志に「明け渡す」こと。

この「明け渡す」ってことを、自分は下手な自転車の練習のように、今日も、繰り返す。何度ころんでも、繰り返す。きっと上手く乗れるようになると信じて、繰り返す。。。

今日もやめない。だって、後ろからイエスが手を伸ばしてサポートしてくれているんだから。

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます
テサロニケ人への手紙第一 5:24 新改訳2017

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