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夢みたいな話だけど。。。神が、そうしたいので、そうします、その結果、そうなります。

自分はクリスチャンで、かつ、アイデンティティーとしては「日本人」だ。

どうして中近東を起源とする何千年もむかしの世界観を受け入れているのかなー、っていうのは考えてみれば不思議。

しかもそれを、何千年も前のことではなく現在進行形から未来へ超え出ていくリアルなものとして感じているから、変な話だ。

今日の聖書の言葉。

主に感謝をささげて御名を呼べ。
諸国の民に御業を示せ。
詩編 105:1 新共同訳

何千年も前のこと。カルデア地方にアブラハムというひとりの男がいた *¹。

ある日のこと、世界を創造した「神」がアブラハムに語りかけた。「約束の地に向かって旅立ちなさい」と。

アブラハムはその招きに応じ、故郷を捨て親族を捨て目に見える保証はなーんにもないのに、約束の地に向かって出発した。

現代人ならここでつまづくよね。だって、変な招待メールが来たら即削除するし。あと、旅立つ前は行先の情報を『地球の歩き方』とかネットで詳しく調べるでしょ?

約束の地に入ったアブラハムは、自分の足の裏のサイズの土地も得てないにもかかわらず、さらなる神の語りかけを聞いてそれを信じた。

その語りかけというのは、アブラハムに約束の子としてイサクが生まれ、イサクの子孫は「海の砂」「空の星」が数えきれないように増え広がって世界を相続するというもの。

で、約束とおりイサクが生まれたんだけど、そこで「神」は信じられないほど理不尽な要求をつきつけた *²。

それは、少年となったイサクを燔祭(焼き尽くすいけにえ)として神にささげよ、というものだった。

こんなの絶対矛盾してるじゃん。だって、イサクの子孫が無数に増えて世界を相続すると言っておきながら、イサクの命を奪えと言うんだから。

常識人だったら、ここで神の要求を辞退すると思う。てか、辞退しなきゃ絶対だめでしょ!?

ところが、ほんとうに驚くべきことに、アブラハムは神が指定したモリヤの山でイサクを燔祭としてささげたんだ。

いや。ささげようとした瞬間に「神」が全力で制止して「イサクを燔祭にしちゃダメ。おまえのこころは、よーくわかったから!」て言ったんだけどさ。。。

ここも現代人が怪訝に思うとこだよね。だって、神は全知全能なはずじゃん? ぜーんぶ、わかってるんだったら、アブラハムの本心だって手に取るようにわかるはずでしょ? だったら、なんで「燔祭にしろ」って言っておいてすぐ「やっぱダメ」って撤回するのよ?

まあ、でも、神は全知全能でありながら、定義上絶対的な主権者でもあるとされているので。。。つまり、神は神がやりたいように行動し、それについて神は説明する義務もないし、また、神が説明したところで神以外にだれも理解できないということではあるんだけれど。。。

なので、神については何も理解できないとする「否定神学」というのは、まことに潔いという感じがしないわけでもない。

しかし、それではどうしようもないので、自分は自分の理解できる範囲で次のように考えている。

イサクを燔祭にしろと言われて、アブラハムは死ぬほど悩んだと思う。

その悩みを通してアブラハムが到達したのは、復活の信仰だったんじゃないだろうか。

燔祭となったイサクから子孫が生まれて世界を相続するという未来が到来するために、考え得るたったひとつの方法は、イサクが復活するということしかない。。。

アブラハムはそう思い至ったんじゃないだろうか。これについては新約聖書のヘブライ人への手紙 11:19 でもこう言われている。

アブラハムは
神が人を死者の中から生き返らせることも
おできになると信じたのです
それで彼は、イサクを返してもらいましたが
それは死者の中から返してもらったも同然です

まあ、アブラハムの内面に立ち入ることはできないので、アブラハムの行為を外からながめて推測するしかないんだけれど。。。

もし、上記の推測が正しければ、アブラハムはイサクの復活を信じて燔祭にしようとした、ということになるよね。。。

でも、結局のところ、イサクを燔祭にすることを「神」は許さなかった。

そしてその上で、神はアブラハムを義とした。それはつまりアブラハムは神のこころの完全な満足となったということなんだけど。。。

どうして神はアブラハムに満足したんだろう? さらに推測を重ねると。。。

イサクが復活することを、アブラハムはなーんにも見ないで信じた。

この「復活を見ないで信じる信仰」を神はアブラハムのうちに認めて、だから、神はアブラハムに完全に満足したんじゃないだろうか。

こっからは、四千年以上の歴史をすっとばしていきなり結論に行く。。。

イサクを燔祭とすることを撤回した「神」は、代わりに神自身を燔祭にすることにしたんじゃないかと思う。

で、ほんとうに「神」は歴史のなかで神自身を燔祭として差し出した。それがイエスの十字架だったんじゃないかと自分は考えている。

そのイエスは復活した。

いま、イエスの復活を信じるように全人類が「神」から招かれている。

じゃあ、イエスの復活を信じるってどういうことかと言うと、それは、あのアブラハムがやってのけた「復活を見ないで信じる信仰」を持つってことになるんだ。

アーメン、イエスの復活を信じます! と言う人間は、ぜーんぶこの「復活を見ないで信じる信仰」のうちにくくりいれられちゃう *³。

くくりいれられちゃうって言うよりかは、あの絶対的な主権者である神が、「あー、はい。あなたもアブラハムと同じことをしましたよね? なので神はあなたに完全に満足しました。ですので今後あなたを『神のこころの完全な満足』として扱います」って宣言するってことだ。

これを神学的には、義認とか称義(ジャスティフィケーション)って言うんだけれど。。。

ひるがえって自分をかえりみてみると。。。

東洋の島嶼国に生まれ、人種的にはモンゴロイド、言語学的にはウラル・アルタイ語族の膠着語である日本語の話者である自分。

自分はまことに不思議なことに、イエスが十字架にかかり復活したってことをなーんにも見ないでほんとのことだと思っている。

その信仰はアブラハムの「復活を見ないで信じる信仰」と確かに同じだ。

すると論理的に、神はアブラハムを「神のこころの完全な満足」としたように、この自分を「神のこころの完全な満足」としているってことになる。

こうして新約聖書のこのステートメントにたどりつくんだ。

従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼(アブラハム)はわたしたちすべての父です。
ローマの信徒への手紙 4:16 新共同訳

さて、最初に戻ると。。。

イサクの子孫は「海の砂」「空の星」が数えきれないように増え広がって世界を相続するという神の約束があったよね。

自分はいま世界を相続するというその「海の砂」「空の星」のひとつが、実はこの自分にほかならないってことに気づかされる。

この自分が世界を相続する? まるで夢みたいな話だけど。。。

でも、ほら、神は絶対的な主権者であるわけだから。だから、神がそうしたいのでそうします、その結果そうなりますってことになるんだ。

註)
*1.  Cf. 創世記 12:1ff
*2.  Cf. 創世記 22:1ff
*3.  Cf. ローマ 10:9

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