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一緒に食事をしよう

中世の修道院では、修道士たちが食堂で沈黙のうちに食事をした。「塩をとってくれ」と言いたいときは、口で言わず、指で符牒を作って、やりとりした。沈黙を守ったのは、食事の時にも心を神に向けるためだった。

緊急事態宣言が解除されたら、注意深い配慮のもと、教会で礼拝が再開されることになる。多くの教会にとっての悩みは、会食をどのように行うかだ。礼拝は再開しても、会食はやらない、という考え方があるだろう。会食をやる場合、教会のキッチンで調理したものではなく、店で購入したものだけを食べる、という方法があるだろう。着席時は、対面にならないよう、互い違いに座る、という工夫があるだろう。そして、会食時には、沈黙を守るように。。。しゃべることによる飛沫を避けるため。。。という指示があり得るだろう。食事における沈黙の復活だ。そうなると「急須を取って」とか「皿を回して」とか、符牒を用意する必要があるかも。

聖書では、神を礼拝することと食事することが、ワンセットになっていた。旧約聖書の時代には、屋外にしつらえられた礼拝の場所で、羊などの動物を祭壇で焼き、あつまった家族が一緒に肉を食べた。バーベキューのようなものだ。バーベキューで肉を焼くのはお父さんのつとめ、とされているのは、もしかしたら、旧約の時代から祭壇で肉を焼くのは祭司の務めとされてきたことと、つながりがあるかも。。。いや、ないか。。。

礼拝で一緒に食事すること。それは、神と自分たちの間に、シャローム(完全な一致と平和)があることを体感することだった。

今日の聖書の言葉。

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
ヨハネの黙示録 3:20 新共同訳

このイエスの言葉を絵に描いた、ホルマン・ハントの「世の光 キリスト」という作品がある。ランプを手に持つイエスが、戸をノックしている。戸にはツタが絡まっていて、もう長いこと開け放たれた形跡がないことをうかがわせる。そして、戸にはドアノブが無い。。。つまり、戸を外から開ける手だては無いことを示している。中のひとが戸を開けてくれるまで、イエスはじっと待ち続けている、というわけだ。

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心の中に閉じこもりがちなわたしたち。このコロナ禍においてはなおさらだ。だけど、イエスは今日も、わたしたちの心をノックしつづけている。心を開くなら、イエスは入って来て、わたしたちと一緒に食事をしてくださる、と聖書は言う。

新約聖書では、イエス・キリストは「神の小羊」と呼ばれる。全人類の罪の代償として十字架という祭壇の上で命をささげたイエスは、そのことによって、わたしたちに完全な罪のゆるしを与えたからだ。

このイエスと一緒に食事をすることは、究極の礼拝だ。それは、神と自分との間に、シャローム(完全な一致と平和)があることを体感させてくれる。

残念ながら、いまコロナ禍で教会の戸は閉じられている。聖餐式も愛餐会も休止。クリスチャンが会食する機会は無い。でも、わたしたちは自分の心の戸を、イエスに対して開け放つことができる。

イエスは「神」だから、いつでも・どこでも・いまも・この瞬間も、わたしたちと共にいてくれる。イエスに心を開くとき、イエスは、わたしたちの心に入って来る。イエスはその命でわたしたちを満たしてくれる。わたしたちは永遠の命にあずかる。なぜなら、イエスは死んで復活し、永遠に生きている存在だから。


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