全宇宙の全知識に全量的にアクセスすることは永遠に不可能、というパラドックスを、どうするのか問題。
えー、そうなの? なんでだれも教えてくれなかったのよ? って思うこと。あるよね。。。
だれかが、ちょっと教えてくれたら、避けられたかもしれない失敗。
生きてると、そういうことって、たびたび、ある。
逆に、相手は当然そんなこと知ってるよな、って、なーんも心配しないでいたら、実のところ、ぜんぜん知ってなくて、だから、インシデントが発生しちゃうという。
こんなことになるなら、まえもって教えてあげていたのに、って、後悔すること、しきり。。。
今日の聖書の言葉。
知恵ある者と共に歩けば知恵を得
愚か者と交われば災いに遭う。
箴言 13:20 新共同訳
生きるのに必要な、ありとあらゆる情報を図書化して、だれでも、いつでも、アクセスできるようにしよう、っていう壮大なプロジェクトが18世紀の「百科全書派」によってスタートした。
その熱意たるや、世界内に存在するあらゆる事物を言語化し、図表化し、記号化し、記録しようとする、スゴイものだ。
その流れが百科事典となって、20世紀になると一般家庭の本棚に鎮座した。
で、百科事典の先に、あらゆる情報を網羅して、だれでもアクセスできるようにしたインターネットがあるのかもしれないねー。
百科全書派のプロジェクトが、この先、どんな未来を迎えるのか。。。
こっから先はSF的な想像だけど。。。
宇宙の全知識を網羅するデータを保持するには、そのためのコンピューターを稼働し続けないといけない。
で、コンピューターを動かすには、熱量が必要。
そして、コンピューターが全宇宙の知識を保持しようとすると、そのために必要な熱量は、「この宇宙」が提供可能な熱の総量を超えてしまう。
そうなると、別の宇宙から熱量をゲットしないといけない。
首尾よく別の宇宙から熱量を引っ張って来れたとして。。。そうなると、別の宇宙が出てきちゃったわけだから、網羅しなきゃいけない知識の量が、その分、増えちゃう。
そこで、コンピューターの稼働を拡大しなきゃいけないことになり、そのためには、もっと熱量が必要になり、だから、さらにもっと別の宇宙から熱量をゲットすることになり、しかし、さらに宇宙が出て来たら、さらに知識の量が増えちゃうわけで。。。
。。。っていうパラドックスがあるために、なんと、われわれは全宇宙の全知識に到達することは永遠に不可能、ということになってしまうんだ。
このため「知識」ではなく「知恵」が必要、ってことになる。
しかも、全宇宙の全知識への全量的アクセスを華麗にスルーして熱量を節約しながら、全宇宙的にどこでもうまーく切り抜けていけるような「知恵」。
そんな知恵が、どこにあんのよ? ってことになるんだけど。。。
あるんだよね。。。それが。。。
あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。
ヤコブの手紙 1:5 新共同訳
じゃあ、具体的にその知恵って、なんなの? ってことなんだけど、新約聖書はこう言ってる。
神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
コリントの信徒への手紙一 1:30 新共同訳
神があたえる「知恵」とは、イエス・キリスト、ということになるんだ。
その新約聖書は、イエス=神、という立場をとっているわけだけど。
キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。
ローマの信徒への手紙 9:5 新共同訳
イエス=神、であるなら、当然、イエスは全宇宙の全知識を全的に把握していることになる。しかも、宇宙の数がどれだけ増えても、やっぱり、ぜーんぶ把握していることになる。なぜなら、神は万物の創造者だからねー。
神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。
ヘブライ人への手紙 1:2 新共同訳
われわれは、全宇宙の全知識に全量的にアクセスすることはできないけれど、全宇宙の全知識を全量的に掌握しているイエスのキャラクターには、アクセスすることができる。
そのイエスのキャラクターとは「愛」だ。で、われわれは、その愛については、全量的に体験することが、できるんだ。
あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
エフェソの信徒への手紙 3:18-19 新共同訳
知識への道のりは永遠に遠い。けれど、イエスの愛は、いま・ここで・すべて・すぐに、ゲットできるんだ。
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