全宇宙の全知識に全量的にアクセスすることは永遠に不可能、というパラドックスを、どうするのか問題。
えー、そうなの? なんでだれも教えてくれなかったのよ? って思うこと。あるよね。。。
だれかがちょっと教えてくれたら避けられたかもしれない失敗。
生きてるとそういうことってたびたびある。
逆に、相手は当然そんなこと知ってるよなって、なーんも心配しないでいたら、実のところぜんぜん知ってなくて、だからインシデントが発生しちゃうという。
こんなことになるなら、まえもって教えてあげていたのにって後悔することしきり。。。
今日の聖書の言葉。
生きるのに必要なありとあらゆる情報を図書化して、だれでもいつでもアクセスできるようにしようっていう壮大なプロジェクトが、18世紀の「百科全書派」によってスタートした。
その熱意たるや、世界内に存在するあらゆる事物を言語化し図表化し記号化し記録しようとするスゴイものだ。
その流れが百科事典となって20世紀になると一般家庭の本棚に鎮座した。
で、百科事典の先に、あらゆる情報を網羅してだれでもアクセスできるようにしたインターネットがあるのかもしれないねー。
百科全書派のプロジェクトがこの先どんな未来を迎えるのか。。。
こっから先はSF的な想像だけど。。。
宇宙の全知識を網羅するデータを保持するには、そのためのコンピューターを稼働し続けないといけない。
で、コンピューターを動かすには熱量が必要。
そして、コンピューターが全宇宙の知識を保持しようとすると、そのために必要な熱量は「この宇宙」が提供可能な熱の総量を超えてしまう。
そうなると別の宇宙から熱量をゲットしないといけない。
首尾よく別の宇宙から熱量を引っ張って来れたとして。。。今度は別の宇宙が出てきちゃったわけだから、網羅しなきゃいけない知識の量がその分増えちゃう。
そこで、コンピューターの稼働を拡大しなきゃいけないことになり、そのためにはもっと熱量が必要になり、だから、さらにもっと別の宇宙から熱量をゲットすることになり、しかし、さらに宇宙が出て来たら、さらに知識の量が増えちゃうわけで。。。
。。。っていうパラドックスがあるために、なんと、われわれは全宇宙の全知識に到達することは永遠に不可能ということになってしまうんだ。
このため「知識」ではなく「知恵」が必要、ってことになる。
しかも、全宇宙の全知識への全量的アクセスを華麗にスルーして熱量を節約しながら、全宇宙的にどこでもうまーく切り抜けていけるような「知恵」。
そんな知恵がどこにあんのよ? ってことになるんだけど。。。
あるんだよね。それが。。。
じゃあ、具体的にその知恵ってなんなの? ってことなんだけど、新約聖書はこう言ってる。
神があたえる「知恵」とはイエス・キリストということになるんだ。
その新約聖書は、イエス=神という立場をとっているわけだけど。
イエス=神であるなら、当然イエスは全宇宙の全知識を全的に把握していることになる。しかも、宇宙の数がどれだけ増えても、やっぱり、ぜーんぶ把握していることになる。なぜなら、神は万物の創造者だからねー。
われわれは全宇宙の全知識に全量的にアクセスすることはできないけれど、全宇宙の全知識を全量的に掌握しているイエスのキャラクターにはアクセスすることができる。
そのイエスのキャラクターとは「愛」だ。で、われわれは、その愛については、全量的に体験することができるんだ。
知識への道のりは永遠に遠い。けれど、イエスの愛は、いま・ここで・すべて・すぐにゲットできるんだ。
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