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ユビキタスなポータルとしてのイエス、っていう話です。

自分はエルビス・プレスリーのゴスペルが好きで、ときどき日本語に訳して歌ってみたりするんだけど。。。

最近、小さなチャペルでこれを歌った。

 小さな教会で イエスさまに救われた
 心は満たされて 涙が流れるのさ

 小さな教会で 少ないひとたちと
 ひたすらに祈るよ 信じて生きるために

 あれこれいろいろ 試したけれど
 ここしか安らぎは ない

 小さな教会で 少ないひとたちと
 心ひとつにして 讃美歌うたうのさ

 あれこれいろいろ 試したけれど
 ここしか安らぎは ない

 小さな教会で 悩みがあるたびに
 ひざまずいて祈り 重荷を下すのさ

この歌がいいなー、と思うのは、やっぱり最後のラインだよね。

イエスに救われて・心を満たされて・讃美歌をうたいながら生きてても、悩みはやって来る。

でも、悩みがあるたびに・ひざまずいて祈り・心の重荷をぜーんぶ下すことができるんだから、ほんと、すばらしい。

そうやって、何度でも、何度でも、軽くなることができるんだ。

そして、どんどん軽くなっていって、最終的には軽くなりすぎて、グラビティですら地上につなぎとめることが不可能になって、天国へリフトアップされるんだろう。

今日の聖書の言葉。

だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
ヘブライ人への手紙 4:16 新共同訳

悩みのタイプはその時々で違うけれど、重荷を下すことのできる場所は、いつも同じだ。それが「恵みの座」だ。

「恵みの座」っていうのは、自分の考えでは、イエスそのものなんじゃないかと思う。

イエスがいる場所。それが恵みの座だけど、じゃあ、イエスはどこにいるか? って言うと、自分が心の重荷を下すためにひざまずいて祈る場所・イコール・イエスがいる場所だ。

だって、イエス自身こう約束しているから。

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
マタイによる福音書 28:20 新共同訳

だから、自分がひざまずいて祈る場所は、いつでも・どこでも・どんな場所でも、イエスのいる場所になる。

イエスはユビキタスなポータルなんだ。

イエスにおける「神」は、全人類の罪を身代わりに引き受けて、十字架で死んで、三日目に復活してくれた。

この十字架と復活を通して、自分の重荷は消えていく、消えていく、どんどん、どんどん、消えていく。

なので、軽くなって、今日も立ち上がることができるんだ。

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