ユビキタスなポータルとしてのイエス、っていう話です。
自分はエルビス・プレスリーのゴスペルが好きで、ときどき日本語に訳して歌ってみたりするんだけど。。。
最近、小さなチャペルでこれを歌った。
小さな教会で イエスさまに救われた
心は満たされて 涙が流れるのさ
小さな教会で 少ないひとたちと
ひたすらに祈るよ 信じて生きるために
あれこれいろいろ 試したけれど
ここしか安らぎは ない
小さな教会で 少ないひとたちと
心ひとつにして 讃美歌うたうのさ
あれこれいろいろ 試したけれど
ここしか安らぎは ない
小さな教会で 悩みがあるたびに
ひざまずいて祈り 重荷を下すのさ
この歌がいいなー、と思うのは、やっぱり最後のラインだよね。
イエスに救われて・心を満たされて・讃美歌をうたいながら生きてても、悩みはやって来る。
でも、悩みがあるたびに・ひざまずいて祈り・心の重荷をぜーんぶ下すことができるんだから、ほんと、すばらしい。
そうやって、何度でも、何度でも、軽くなることができるんだ。
そして、どんどん軽くなっていって、最終的には軽くなりすぎて、グラビティですら地上につなぎとめることが不可能になって、天国へリフトアップされるんだろう。
今日の聖書の言葉。
悩みのタイプはその時々で違うけれど、重荷を下すことのできる場所は、いつも同じだ。それが「恵みの座」だ。
「恵みの座」っていうのは、自分の考えでは、イエスそのものなんじゃないかと思う。
イエスがいる場所。それが恵みの座だけど、じゃあ、イエスはどこにいるか? って言うと、自分が心の重荷を下すためにひざまずいて祈る場所・イコール・イエスがいる場所だ。
だって、イエス自身こう約束しているから。
だから、自分がひざまずいて祈る場所は、いつでも・どこでも・どんな場所でも、イエスのいる場所になる。
イエスはユビキタスなポータルなんだ。
イエスにおける「神」は、全人類の罪を身代わりに引き受けて、十字架で死んで、三日目に復活してくれた。
この十字架と復活を通して、自分の重荷は消えていく、消えていく、どんどん、どんどん、消えていく。
なので、軽くなって、今日も立ち上がることができるんだ。
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