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ない、ない、そんなもの、ない、って言っていることについては、ない、ことの保証は、なにもない、っていう話です。

生まれたばかりの赤ちゃんは、ふにゃふにゃ、ぐにゃぐにゃ、している。

けれど、だんだんしっかりしてくると、ある日、赤ちゃんが眉間にシワをよせ、宙にかざした手を凝視したりしている。

いったい、何を思っているんだろうね?

その「こころ」は? たぶん。。。

「なんじゃ、こりゃーっ!?」って、思っているんだろうねえ。。。

世界が、なぜ、このような世界であり、自分が、なぜ、このような自分であるのか。。。

ってことについては、大昔からいまに至るまで、いろんな探究がなされているわけだけど。。。

答えに迫ろうとすれば、するほど、遠のいて行く感じがする。

今日の聖書の言葉。

主よ、わたしたちの神よ、 あなたこそ、 栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。 あなたは万物を造られ、 御心によって万物は存在し、 また創造されたからです。
ヨハネの黙示録 4:11 新共同訳

世界と自分とその原因を、ぜーんぶひっくるめて「万物」と呼ぶことにした場合。

じゃあ、万物は、どっから、どういうふうに来たのか? ってこと。

キリスト教の神学の場合には、神が無から有を呼び出した、って伝統的に考えて来たわけなんだけど。。。

無から有が出て来るワケないじゃん! っていうチャレンジに対しては、神学者たちは、だって、できるもん、神は全能だから、って答えていた。

でもねー。その答え方は、もう、通用しなくなっているかもしれない。

っていうのは、最新の量子論では、無から常に有が生まれている、っていうふうに考えられているからだ。

無から有が生まれる、って。。。

文系人間の自分には、よくわからない理論ではあるんだけれど、蛮勇をふるって説明するとしたら。。。

無っていうのは、無に見えるけど、それは、人間の目で見て、なにもないように見える、というダケであって、実は、なにかが、そこにあるんだ。

じゃあ、なにがあるの?  ってことになるけど、それは、人間には見えないから、わからない。なので「無」だとしか、言いようがない。

不思議なのは、その無が、いつでも揺らいでいて、無から有が生まれたり、消えたりしている、ってこと。

この場合の有とは、素粒子のことだけど、あたかも煮えたお湯からプチプチ泡が立っては消えるように、無から素粒子が現れては消えているんだって。

つまり、無から有が生まれる、っていうのが、無の常態だ、ってことなんだ。

で、どうして世界が生まれたか、ってことも、この考え方で説明がついちゃう。

それは、無が揺らいで有=世界が出来た、ってこと。

そうなるとねー。。。神学は、どうしたらいいんだろう?

だって、無から有が生まれ続けている、って言うんだから、べつに、無から有を呼び出す神を、呼んで来なくても、足りるじゃん。。。

でも、自分は、この状況を逆手に取って、こう言うこともできるんじゃないか、って思うんだ。

それは、こういうことだ。。。

人間の目に見えないものを「無」と言っているけれど、なにもないように見えるから、便宜上、無と言っているだけであって、その実、そこには、なにかが、あるんだ。

ってことは、われわれが、ない、ない、そんなもの、ない、って言っていることについては、ない、ことの保証は、なにもない、ってことになるよね。

そうすると、神なんか、いない、っていうチャレンジも、片がついちゃう。

だって、そうじゃん? ない、って言うことについては、ない、ことの保証は、なにもないんだから、さ。

さらに、自分は、こう考える。

無が揺らいで有が生まれたり消えたりしている、っていう状態。それは、無っていうよりは、ふにゃふにゃ、ぐにゃぐにゃ、って呼んだ方が、正確なんじゃないか、ってこと。

で、聖書の創世記の冒頭には、まさにその、ふにゃふにゃ、ぐにゃぐにゃ、が登場するんだ。

初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」 こうして、光があった。
創世記 1:1-3 新共同訳

上記で「混沌」って訳されている言葉は、ヘブライ語の原語では、トーフー・ワ・ボーフー、ってなっていて、その意味はまさに、ふにゃふにゃ、ぐにゃぐにゃ、っていう感じだ。

で、それはまた「闇」でもあったんだねー。観測者である人間が不在だから、なにもないように見えるけど、なにもないわけではなく、トーフー・ワ・ボーフーな、なにかがある、っていう闇だね。

そして、その、ふにゃふにゃ、ぐにゃぐにゃが、自ら変じて「有」となった、と言うのであれば、東洋の汎神論になっちゃうわけなんだけど。。。

でも、聖書は、そうじゃない。無が自ら変じて「有」になったわけぢゃあ、ない、って言うんだ。

地は混沌であって、闇が深淵の面にあり
神の霊が水の面を動いていた

神は言われた。「光あれ」 こうして、光があった

ここに、役者がぜんぶそろっている。

ふにゃふにゃ、ぐにゃぐにゃ
そして
神と、神の霊と、神の言葉

これらのコラボレーションによって、世界が誕生し、自分が誕生した、ってことになる。それが、聖書の世界観だ。

クリスチャンである自分にとっては、神とは「父なる神」であり、神の霊とは「聖霊」であり、神の言葉とは「イエス・キリスト」だ。

この世界では、無はいつも揺らいでいて、無から有が生まれたり消えたりしている。そして、無は無だとしか言いようがない、なぜなら、無にしか見えないから。

同時に、この世界では、父と子と聖霊なる三位一体の神が、はたらきつづけている。それは、やっぱり目に見えないから、いないんじゃないの? って思ってしまいがちだけど。。。

でも、神は、神みずから、神のことを、こう言っているんだ。

わたしはある。わたしはあるという者だ *

あの赤ん坊みたく、自分も人生を凝視して、「なんじゃ、こりゃーっ!?」って思ってしまうことが、たまーにあるけど。。。

だからこそ、闇に向かって「光あれ!」って言ってくれる、神の言葉に、耳を傾けていたい。

註)
*  Cf. 出エジプト 3:14

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