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一年間、詩編を祈りながら、感じたこと

『教会の祈り』(時課)で祈っていると、旧約聖書の詩編を一日に10個ぐらい唱えることになる。長い詩編は分割して割り当てられているので、ぜんぶで150個ある詩編をちょうど1か月で読む感じだ。今週の土曜日でことしの朗読配分が終わる。アドベント(待降節)の日曜日からは、2021年の朗読配分のスタートだ。もう、ことし、終わってしまうのね、と感慨ぶかい。

祈っていて感じるのは、いつも神の心の中にあるのはイスラエル・ユダヤ人なんだなー、ということ。もうね、毎日、イスラエルのことばかり詩編に出て来る。どんだけ愛されているのよ。。。

今日の聖書の言葉。

恵み深い主に感謝せよ 慈しみはとこしえに
詩編 107:1 新共同訳

聖書では、神の愛はイスラエル・ユダヤ人に向けられている。にもかかわらず、イスラエルは神に背き続けるんだけど、神の愛は弱まるどころか、むしろ、どんどん強くなっていく。

どこまで強くなるかというと、神の愛が、ひとのかたちをとって地上に降り立つほど。それがイエス・キリストだ。その愛はあまりに強すぎるので、愛のゆえに死んで、死んでも復活し、イスラエルから溢れ出て、はるか遠く異邦人にまで及んでいくんだ。

そういう結果として、異邦人である自分が新約聖書を手にし、キリストに結ばれて生きている「いま」があるわけなんだけど。。。

ここで、異邦人が陥りやすい間違いがある。それは、イスラエルはキリストを生み出したことで役割を終えたので、神の愛を享受できる特別な地位をイスラエル・ユダヤ人はもう持っていない、と思い込むことだ。

この思い込みのために、クリスチャンたちはイスラエル・ユダヤ人に対する非道な行為を2000年にわたり繰り返して来た。キリストの教会における黒歴史だ。その中にはマルチン・ルターも入っている。彼が言ったこと、書いたこと、やったことは、ほんと酷い。。。

黒歴史をみて思うのは、恩寵を受けたことでかえって高慢になり、ひどいふるまいが出来るようになってしまうことがあるんだなー、ということ。恩寵を受けた自分が、ましな存在になったと錯覚し、他人を見下すようになり、そのことがひどいふるまいを正当化する理由となる。恩寵を受ければ受けるほど高慢になって行く、魔のデフレスパイラルだ。

なので、パウロは「思い上がることなく、むしろ恐れなさい」と警告している *。

しかしねー。。。ほんと、ひとって簡単に思い上がってしまうんだと思う。だってさ、『教会の祈り』に毎日毎日これでもか、これでもかって、イスラエル・ユダヤ人に対する神の愛が歌われているのに。その「神の愛の歌」を、くりかえし、くりかえし唱えているはずなのに。それでも思い上がりを抑えられなかったわけだから。。。自戒とするしかないよね。。。

註)
*  Cf. ローマ11:20 新改訳2017

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