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#988 絶対っていうトラップにはまらないためには? っていう話です。

何が正しくて、何が間違っているか、っていうのは、別に自分のアタマのなかに総覧できるリストが入っているわけではなくって。。。

ある事象なり、ある考えなりを自分のハートに照らしたときに、ただもうそれだけで「あ、これは正しい」「あ、これは間違ってる」って、感覚的にわかってしまう、ってものなんじゃないかと思う。

なんで感覚かって言うと、それは別に思考のプロセスを経てそうなるものではなくって、瞬間的にパッてわかってしまうものだから。

そういう感覚をなんて名付けたらいいのかわからないけれど。。。

直観? 直覚? 衡平の法感覚? エクイティ? 良心? コンシャスネス? 分別?

今日の聖書の言葉。

心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず
箴言 3:5 新共同訳

でもねー。。。生きてると、自分では正しいと思ってやったことが、他人から見て間違いだと指摘されることが、たまーにある。てか、多々ある。いや、しょっちゅうある(笑)

だから、自分の分別や感覚を絶対あてにできるかというと、全然そんなことはないんだよね。。。

いや。むしろ、自分の感覚や判断だけでやった結果、失敗する、大失敗する、大惨事になる、ってことが、世界では繰り返し起きているのではないかと思う。

いま世界では戦争が起きていて、いまだに収束する見通しは立っていないけど。。。

あれって、だれがどう見たって間違った判断ではじまった戦争だとしか思えないよね?

でもねー。。。ほんとオソロシイことに、戦争をはじめた当の本人の感覚にしたら、オレの判断は正しい、ってことになってるんだろうなあ、って想像する。。。

いや、もちろん、他人の心中を完全に推し量ることはできないんだけどさ。。。

そういうことを考えると、自分の分別や判断の「正しさ」に固執するってことほど危険なことはないんじゃないかと思うんだ。

でも、逆に、すべての人間の分別や判断を多数決で総合して「全体意思」を構成できれば、それで万事安全か、って言うと、決してそんなことはないわけで。。。

全体意思が全体の判断の「正しさ」を確信してしまった場合には、個人レベルでは到底引き起こせないボリュームの大厄災をもたらして、何千万人もの命が奪われる結果になりかねないことは、歴史が示す通りだ。

まあ、どういう先例があるかについては、見れば見るほどオソロシイので、ここではスパーッと略(笑)

こうなってくると、いったいどうやって分別し判断しモノゴトを決めていったらいいのか、って逡巡する。。。

迷って、迷って、うろうろして、途方に暮れて、上を見あげて、神に祈るしかないよね。どうしたらいいんでしょう、イエスさま、って。。。

でもねー。。。今日の聖書の言葉を見ると、むしろ、迷いがあっていいんじゃないか、って思ったりする。てか、それがいちばん安全な方法じゃないんだろうか?

心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず

だってさ、なんの迷いもなくモノゴトを決められるとしたら、それは、もしかしてもしかしたら、神を信じているからではなく、自分の正しさという「虚構の神」を信じている証左なのかもしれないじゃん?

いや、もしかしてもしかしたら、じゃなく、絶対そうに決まってる。。。

いやいやいや。絶対そうだ!っていう決めつけは、もうすでにトラップにはまっているか(苦笑)

だから、こう言い直そう。あくまで個人の感想です。諸説あります。

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