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豊かさにあこがれながら。。。こんなことではダメだっ。。。っていう話です。

豊かな人生を送りたい、っていうのは、だれでも願うことだよね。

自分もそうだし。。。

じゃあ、豊かな人生って、どれぐらい豊かなら、豊かだって言えるの? ってことになるんだけど。。。

何によってはかるんだろうね、その豊かさを?

まあ、自分が豊かだと思えば豊かだ、という主観的要素が大きいわけであって。。。

だから、豊かさは、ひとりひとりのものさしによって違う、みたいな面があるんだろうなー、と思う。

極論すれば、Aさんが「豊かだー」って感じる状態が、Bさんには「貧しい」ってことがあるわけだしね。。。

今日の聖書の言葉。

与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどにはかりをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量るはかりで量り返されるからである。
ルカによる福音書 6:38 新共同訳

「はかり」の容量がひとりひとり違うのであれば、ユニバーサルにこれが豊かさだ!って定義するのは、難しいと思うんだけど。。。

でも、今日の聖書の言葉でイエスは面白いことを言っている。

それは、豊かさとは「はかり」があふれること、っていう定義の仕方だ。

あふれるほどに量りをよくして
ふところに入れてもらえる

そりゃ、自分の「はかり」の容量を超えてドバーッてあふれる状態にしてもらえたら、たしかに豊かですねー、と評価するしかないよね。

1世紀のユダヤ人、中世のノリッジの聖女、19世紀末のロンドンの街頭商人コスタモンガー、現代の日本人、ビル・ゲイツ、イーロン・マスク、ヒマラヤの洞窟の仙人リシ、シベリアの森に棲む古儀式派の隠遁者。。。みんなそれぞれ「はかり」が違うけど、でも、それぞれの「はかり」があふれる状態になれば、それは、それぞれにとっての「豊かさ」として実感されるはずだよね。

問題は、その「はかり」が、どうしたらあふれる状態になるか、ってことだ。

それについてもイエスは具体的な指示をしている。

それは簡単に言えば、他者に対して自分の「はかり」を超えて生きろ、ってことなんじゃないかと思う。

どういうことかというと。。。

まず、われわれの念願の「豊かさ」について。こういう状態に今すぐなりたいものだ。

あふれるほどに量りをよくして
ふところに入れてもらえる

で、その豊かさにあずかる条件は、自分の「はかり」の容量をきっちり見据えることだ、と言われている。

あなたがたは自分の量る秤で
量り返されるからである

自分の「はかり」を認識して行動するなら、それに見合った分が与えられる、って言うんだ。

じゃあ、自分の「はかり」に基づいて、どう行動すればいいのか? 

それについては、今日の聖書の言葉の直前の箇所で、こう言われている。

イエスは、こう言う。

人を裁くな
そうすれば
あなたがたも裁かれることがない

他人のあやまちを自分の「はかり」で裁く、っていうのは、われわれが普段からやっていることだけど、イエスはここであえて、自分の「はかり」で他人を裁くな、って言うんだ。

さらに。。。

人を罪人だと決めるな
そうすれば
あなたがたも罪人だと決められることがない

自分の「はかり」で他人を罪に定めるな、と言う。やっぱりここでも、自分の「はかり」を超えて生きろ、ってイエスは言うんだ。

さらに、もっと。。。

赦しなさい
そうすれば
あなたがたも赦される

自分の「はかり」に照らして絶対ゆるせない相手を、ゆるせ、ってイエスは言う。超えろ、超えろ、「はかり」を超えろ! のオンパレード。。。

最後の締めくくりが、これ。。。

与えなさい
そうすれば
あなたがたにも与えられる

いやー、なにもそこまでやる義理も道理もないじゃん? っていう自分の「はかり」に照らして、だから与えない、って決めるわけだけど、でもイエスは、自分の「はかり」を超えて他人に与えろ、って言うんだ。

以上。。。

そういうふうに自分の「はかり」を超える生き方をしているなら、結果として、こうなるんだ。

あふれるほどに量りをよくして
ふところに入れてもらえる

さて、現状。自分は「ふところ」のさびしさを感じずにはいられない。。。

イエスの言葉を聞いて、ひとり反省会を小一時間してみる。

そこで感じることは、あー、やっぱり自分は、自分の「はかり」に執着して、自分基準で他人を裁いて・罪に定めて・ぜーったい赦さなくって・惜しんで何も与えない、っていう生き方をしているから、だから、どんどんジリ貧になって行くのは当然なんだなー。。。

そう思わざるを得ない。。。

こんなことではダメだ! さくっ、と回心しよう。

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