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ウィキペディア三大文学頁から「苦痛」について考えた。

ウィキペディア三大文学頁、というのが、先日 Twitter で話題になってた。

ウィキペディアとは、ウィキペディア自身の記述によれば、ウィキメディア財団が運営している多言語インターネット百科事典。コピーレフトなライセンスのもと、サイトにアクセス可能な誰もが無料で自由に編集に参加できる。世界の各言語で展開されている。

書斎にエンサイクロペディア・ブリタニカとか平凡社世界大百科事典をそろえよう、という人は、いまや希少で、だれでも・なんでも・ウィキペディアだよね。

三大文学頁とは、おもわず読み手を「文学か!」と唸らせるほど、非常に内容が充実した項目のことだ。殿堂入り、とされている作品と、殿堂入り候補作(多数)をみると、いずれも、人間の「苦痛」に関するものばかりであることが、わかる。

平穏な人生を、だれしも願う。けど、悪魔のわざとしか思えない、とほうもない「苦痛」が、世界に、たくさんある。候補のひとつ「八甲田山雪中行軍遭難事故」では、遭難者が「天はわれわれを見放した」と叫ぶ場面が記されていて、神も仏もない、と思ってしまうのも不思議でないほど、悲惨だ。

そんな「苦痛」に遭いたくない。。。だから、人間は、洋の東西、民族の別なく、苦痛を回避するための、形而上学的なシステムを、祈求してきたんだと思う。

日本では、大祓の祝詞、というのがある。これは、全国の神社で毎朝となえられる、お祈りの言葉だ。その世界観では、この国のすべての「苦痛」を、四人の神々、セオリツヒメ、ハヤアキツヒメ、イブキドヌシ、ハヤサスラヒメが、ぜんぶ引き受けてくれる。ハヤサスラヒメにいたっては、この国にある「苦痛」を、その身ひとつにすべて飲み干し、泣き叫び、もがき苦しみながら、地下にある暗いヨミの世界を、永遠に彷徨し続けるんだ。。。

これに類似した世界観を、ハイファンタジーの作家、アーシュラ・K・ル=グィンが『オメラスから去る人々』(風の十二の方位 所収)という短編に描いている。いっさいの「苦痛」から解放された、理想の都市、オメラス。しかし、その平和は実は、地下の牢ふかくに囚われたひとりの少年が、すべての苦痛を身ひとつに引き受けることを条件に、成り立っているんだ。みんなの幸福が、ひとりの犠牲によって保障される、という世界の構造。

このオメラスのはなしは、サスペンスドラマ MOZU にも引用されていたよね。

今日の聖書の言葉。

彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
イザヤ書 53:5 新共同訳

長い「苦痛」の歴史のなかで、人類が最終的にたどりついた世界観は、実におどろくべきものだ。

それは、世界の創造主である神が、世界のすべての「苦痛」を、その身に引き受け、神から遺棄されるという宇宙最大の苦痛のうちに、死ぬこと。つまり、神が神から遺棄される、ということだ。

オメラスの牢獄に囚われた少年は、自分にとっては、イエス・キリストのように、思える。

でも、ル=グィンの世界観には欠けていて、新約聖書では補完されている要素があるんだ。

それは、少年=神の子=キリストが、三日目に地下の牢から解放され、よみがえり、勝利者として王座に着く、というストーリーだ。

すべての苦痛を引き受けたキリストが、世界を治める王として、王座に着いている。彼はいま、静かに、わたしたちのことを、見ている。そして、問うているんだ。。。

おまえは、苦しんでいる者なのか、それとも、だれかを、苦しめる者なのか。。。

この世界観のしめくくり、大団円は、こうだ。苦しんで死に、よみがえって、王座に着いたキリストが、勝利の凱旋をする日が、やがて来る。その日、世界中の人々が、キリストの再臨を目撃する。キリストは、苦しんでいる者を彼の王国に迎え、逆に、だれかを苦しめた者には、きつーいお仕置きをするんだ。

そのお仕置きは、何かと言うと、ひとこと、キリストから、こう告げられることなんだ。

あの日、おまえが苦しめた相手は
ほかのだれでもない、このわたしだったのだ

。。。これを告げられたら、絶対に立ち直れない自信がある。

付け加えると、ここまでの世界観の流れがあって、そことは別に、犠牲を拒否して、みんなの幸福より二人の幸福を選び取る、あたらしい決断の物語としての『天気の子』があるわけなんだけど。。。あれは、衝撃的だ。


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