#895 あらゆるインプットを愛でアウトプットする謎のブラックボックス、っていう話です。
聖書っていうと「ああ、あれねー。絶対実行不能な倫理が書いてあるやつでしょー」と言われることが、たまーにある。
その、絶対実行不能な倫理というのは「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とか「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」とか系を指しているんだろうなー、っていうのは想像がつく。
でもねー。。。
自分はクリスチャンだけど、じゃあ、だから自分は絶対実行不能な倫理を「実行」しようと不断の努力に励んでいるか? ってことを考えると。。。
いや。ぜんぜんそんな努力、してないし。。。
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> ぜんぜんそんな努力してない <
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今日の聖書の言葉。
イエスは、イエスが言ったとおりの生き方をすれば、人生は盤石になる、ってことを、上記の言葉で言ってるように見える。
じゃあ、イエスが言った生き方というのは、具体的にどういうものなのか?
それについては、このマタイ7章より前に書いてある「山上の垂訓」と呼ばれるイエスの教えで示されているわけなんだけど。。。
それが、その絶対実行不能系のやつ、なんだよね。
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とか「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」とかも、この山上の垂訓に出て来る。
まあ、でも、思うんだけど。。。
そういう絶対実行不能系のやつを、ぜーんぶちゃんと平常心で行えるような自分になることができたら。。。
ほんとうにそういう自分になれたら。。。
そしたら、人生にどんな厄災が起きても、絶対に盤石なんじゃね? ってことは思う。
だってさ。。。
敵が来ても、その敵を愛しちゃうわけでしょ?
で、その敵から攻撃されても、ぜーんぶ受け止めて、愛しか返さないわけでしょ?
つまり、人生にどんなインプットをされても、出て来るアウトプットは、ただただひたすら「愛」しかない、っていう状態になるわけで。。。
で、人類が永遠に希求するのは、いつも・つねに・たえず「愛」であるわけだから。。。
だから、イエスの言葉を完全に実行できるようになった自分とは、あらゆるインプットをすべて「愛」でアウトプットするブラックボックス、っていうことになるんじゃないかと思う。
なんでブラックボックスか、って言うと、憎しみをインプットしたのに、どうして愛がアウトプットされるのか、その仕組みや機能や原理が、人間の常識を超えているから。
人間の常識を超えた「なにか」で動くブラックボックスであるのなら、これはもう、人間の通常の努力では達成不能っていうことになるよねー。
クリスチャンである自分は、絶対実行不能な倫理を「実行」しようと不断の努力に励んでいるわけではない、って最初に書いた。
スミマセン。あくまで個人の感想です。ほかのクリスチャンで日々努力している方は当然いるかと思います。。。
。。。というふうに例外に言及しておいた上で、少なくとも自分は努力はしていないんだけど。。。
そうであるにもかかわらず心が平安でいられるのは。。。
それは、ブラックボックスの中身がなんなのかを知っているからなのかもしれない。
自分というブラックボックスのなかにいるのは、イエスだ。
証拠聖句は、これ。
つまり、こういうことになる。
自分というブラックボックスのなかにイエスがいるならば、憎しみをインプットして愛がアウトプットされるのは、当然のことだ。
だって、そこにイエスが働いているわけだから。
逆に、自分というブラックボックスのなかにイエスがいないならば、それはつまり中身が空っぽということになるから、だから、憎しみをインプットして憎しみがアウトプットされるのは、当然のことだ。
で、イエスが自分のなかにいてくれるか・いてくれないかは、自分の努力にはぜんぜんよらない。
それはただ、信じるか・信じないか、によるんだ。
こうして、自分のメンタリティは、こういうことになるんだと思う。。。
もし、憎しみを愛で返せたら、それは自分のなかにいるイエスがしてくれたことだ。だからイエスに感謝。
もし、憎しみを憎しみで返したら、それは中身が空っぽの自分がしたことだ。でも、それでもイエスに感謝。
なぜなら、敵を愛し、迫害する者のために祈り、右の頬を打たれたら、左の頬を差し出すイエスは、当然のことながら、中身が空っぽの自分をそのまま愛してくれるから。
だから、空っぽの自分をイエスに差し出して、今日もよろしくお願いします、って言うしかないんだ。そして、どんなアウトプットが出て来るかを見ることにしよう。ただそれだけ。
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