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因果律を超える愛

原因があれば結果があり、正しいことを行えば報いがあり、間違ったことをすれば罰を受ける。善因善果。悪因悪果。善から悪は生じないし、悪から善は生じない。これが単純な因果律だ。

この原則が決定論と組み合わされると機械的な世界観となって、世界の中の物事はすべて計算され予測された通りの動きをすることになる。原因xを関数であるボックスfに投入すると必ずf(x) が吐き出されるみたいに。。。

ところが、機械的な世界にも非決定的要素というのが存在している。たとえば「三体問題」というやつ。文系の自分には解説は無理なんだけど、文系脳を使って簡単に言うとすれば、三つ以上の天体が相互に影響し合う関係は、どう動くか計算することができないというもの。もちろん、永遠無限に駆動できる計算機があれば計算できるんだけど、その計算機を動かすのに必要なエネルギーが全宇宙の熱量を超えてしまったら、もうそれ以上は計算できない。だから事実上計算不能ということになるんだ。

中国のSF小説『三体』がベストセラーになってるけど、三連星のシステムに住む宇宙人が膨大な年月をかけて地球を侵略してくるストーリーだ。知能で圧倒的に優位に立つ三体人に対して地球人が勝てる見込みはゼロ。。。だからストーリーには絶望的なトーンが漂ってる。。。だけど三体なんだよね。。。三連星だから。。。つまり三体人は計算による予測が不能な環境に置かれていることになり、この非決定論的な隙間に人類の勝機が見えて来るわけなんだ。

今日の聖書の言葉。

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
ローマの信徒への手紙 5:8 新共同訳

お互いが細心の注意を払って生活している社会では、少しの失敗や過ちも許されない。まして悪を行う人間は絶対に認められない。それはオールオアナッシングの世界で、旧約聖書はまさにオールオアナッシングを描いている。故意に間違いを続ける者に対して神は警告し、それでも改めないなら、裁きを下してすべてを奪い取り、滅びの淵に落とす。例外はあり得ない。しかもそれは口先の警告ではなく、ほんとうに実行された裁きだ。ノアの洪水、バベルの塔、出エジプトの十の大災忌、神殿の破壊、バビロン捕囚。。。ナッシング、ナッシング、ナッシングのフルコンボ。。。

しかし、新約聖書はこのオールオアナッシングの世界に、因果律を変えてしまう「愛」をぶっ込んでくる。それがイエス・キリストの十字架だ。中世の神学者アンセルムスは、神がすべてを決定している世界にあって、果たして人間の意志の自由はあるのか、ということを探求した。人間が罪を犯さざるを得ない無力な存在であり、かつ、神が義の神であるならば、結果は見えている。人間は裁かれて滅びるしかない。ところが、神は人類を愛するゆえに、神が神自らを裁くことによって神を死に至らせ、そうすることで神は神による裁きを終わらせて、人類に罪の赦しを与え、神との交わりのうちに人類を包摂した。

いま、わたしたちが住む宇宙では、万物が因果律によって支配されているように見えながら、「愛」という変数によって宇宙の法則がしばしば変更されるという不思議な世界になっている。そこでは、赦しと回復が生じ、悪と思われていたものから善が生じることすらある。その不思議な瞬間とは、わたしたちが自分の罪を悔い改めてイエスを信じる瞬間なのだ。その不思議な瞬間は、この宇宙で繰り返し発生し、それが起きるたびに、決定論的な宇宙が自由な意志によって更新される。その自由な意志とは、父・子・聖霊の相互作用によるものでもあるし、神・自分・他者の相互作用によるものでもある。そのようにして、この宇宙は新しい世界へと変わり続けて行くのだ。


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