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#986 元旦早々から難易度の高い聖句を考えさせられた、っていう話です。

個人的に尊敬している編集工学者・松岡正剛の「千夜千冊」っていう毎日書評をブログに上げるプロジェクトにインスパイアされて、自分は1000本ノックならぬ1000本noteを初めてみたんだけれど、はや三年。。。

あと15本書いたら目標達成という地点までやって来た。

毎日のルーチンとしてそれをどうやっているかというと、早朝に聖書通読アプリ YouVersion から「今日の聖書の言葉」がメールで送られてくる。

それを読んで歯を磨きながら黙想して。。。そりゃあね、歯を磨いていたら黙って考えるしかないわけで。。。考えがまとまったら30分以内でサクッと書いてしまう。

で、その日のスケジュールの空いた時間にアップロードする、って流れなんだけど。。。

そういうのを重ねるなかで、一定のスタイルが形成されて来たと思う。

どういう文体になったかというと「令和ぶっちゃけ体」みたいな感じだろうか。

日常会話で使う表現をそのまま文字にすることを目指しているつもりなんだけど、ところどころネットスラングや顔文字がちりばめられている。

そこは平成っぽい、っていうか、昭和っぽいよね(苦笑)

にしても、早朝に届く聖書のテキストは自分で選べるものではないから。。。

だって YouVersion がどういうアルゴリズムで聖句を送って来るのかはブラックボックスだからね。。。

なので、それらの聖句には、かるーく読めるものもあれば、えっ、ってなる難易度の高いものもある。

元旦に届いた新年最初のテキストには思わず言葉がつまった。

だって、これだもん。。。

今日の聖書の言葉。

わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き 絶え間なく嘲って言う 「お前の神はどこにいる」と。
詩編 42:11 新共同訳

「オマエの神はどこにいる?」って面と向かって言われた経験は、自分には数えるほどしかないけれど。。。

でも、世界の状況がいまこのようになっていて、それに対して神サイドはずーっと沈黙を保っているのだから、世界の運営責任者はどこにいる? っていう叫びを、ネット上でよく見る。

その叫びは別にこの自分に向けて発せられたものではないけれど、心にグサッって刺さってくる。

そういう痛みを感じるときに、自分も思わず心のなかでつぶやいてしまうんだ。「神さま、あなたはどこにいるのですか?」って。

でも、そういう問いを発した瞬間、すぐ聞こえて来るのは「わたしはここにいるよ」っていう神 or イエス or 聖霊の声なんだよね。。。

それについては、そういうふうに聞こえるように思っているに過ぎない、っていう単なる主観に過ぎないのか、あるいは、そういう声が聞こえるように自分で自分を思いこませようとしている自己暗示なのか。。。

そんなふうに客観的に自己分析をしてみようとすることもあるんだけれど。。。

でも、まあ、結局、生きている限り自分を完全に客観視することはできないし、だとしたら、自分の主観から抜け出すことは不可能ってことなわけだから。。。

だから、そこは深くつっこんで考えることはしないで「あー、よかった。あなたは共にいてくださるのですね、神さま」って素直に受け止めて、感謝するようにしている。

いままでもそうしてきたし、去年もそうしてきたから、今年もそうするつもりだ。

じゃあ、そういう素直な感謝をもって元旦を迎えたときに、今日のこの聖書の言葉はどう扱ったらいいのよ? ってことになるんだけど。。。

わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き
絶え間なく嘲って言う
「お前の神はどこにいる」と

自分的には、これは自分にではなくイエスに対して発せられたものとして受け止めたいと思う。

なぜなら、ほんとうにイエスはそういうふうに嘲笑されたから。

証拠聖句が、これ。

祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
マタイによる福音書 27:41-43 新共同訳

オマエが神の子だというなら「神」に救ってもらえ! っていう嘲りを受けたイエス。。。

その嘲りを受けていたイエスのかかとは十字架にくぎ打たれて文字通り骨が砕かれていたんだよね。

オマエの神はどこにいる! って言われたら、自分は「神さま、どこにいるんですか? わたしを見捨てたんですか?」ってすぐ思っちゃうわけだけど。。。

それって、人生で経験するフィーリングとしては最低の最低レベルの感情だよね。

でも、驚くべきことにイエスはそういうフィーリングすらも自分と共有してくれている。

証拠聖句が、これだ。

昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マタイによる福音書 27:45-46 新共同訳

これが。。。こういうことがあるから。。。だから、たとえ今年がどんなふうに転んだとしても、自分は大丈夫だ、って思えるんだよね。

だって、イエスは最低の最低レベルの経験のなかですら自分と一緒にいてくれる、っていうわけだから。

しかし、それじゃあなんだか「総員衝撃に備えよ!」みたいで、あんまり「あけましておめでとう」にふさわしくないかもしれないねー。。。

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