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目覚めている精神の輝き

自分は低血圧人間なので朝が弱い。早朝にお祈りしていると、もう睡魔との戦い。座っていると寝ちゃう。なので、コーヒーを飲んで祈る、内腿のやわらかいところをツネリながら祈る、立って祈る、室内を歩きながら祈るなど、いろいろ試したあげく、最終発展形として「外を歩きながら祈ればいいんじゃね?」ということで、ウォーキングプレーヤー (Walking Prayer) つまり「散歩+祈り」という実践にたどりついた。

祈りと睡魔の戦いという課題はイエスの弟子たちも経験したんだよね。最後の晩餐のあと、イエスと弟子たちはオリーブ山の麓にあるゲッセマネの園に出かけて行き、夜を徹して祈った。いよいよ十字架にかかろうとしていたイエスは、祈りのうちに父なる神の導きを受けて決心を固める必要があった。その祈りを弟子たちにサポートしてもらいたかったイエスなんだけど、残念なことに弟子たちは爆睡してしまい、途中イエスに3度起こされたけど、弟子たちは目覚めていることができなかった。。。

戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。
マルコによる福音書 14:37-41 新共同訳

おまえたち、いつ見ても眠っているよね。。。もう、いいよ。。。

この「もう、いいよ」というところに、せつなさを感じる。

今日の聖書の言葉。

目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。
コロサイの信徒への手紙 4:2 新共同訳

今日の聖書の言葉が取られているコロサイ書をパウロは獄中で執筆したんだけど、「目を覚まして」という言葉を綴りながら、もしかしたら彼が過去に経験した睡魔墜落死事件を想起していたかもしれない。人の命すら奪う睡魔、恐るべし。その事件はトロアスという港町で起きた。

週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。 わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。 エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。 パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」 そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。 人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。
使徒言行録 20:7-12 新共同訳

話がよっぽどつまらなかったのか、良い話にしても長すぎたのか。そのへんパウロも自覚してたみたいで、「パウロの手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言われたことを激オコ調でコリント後書10:10 に書いてる。もし、パンを裂いて食べてるとこにコーヒーが供されてたら、この事件は起きなかったかもしれないんだけど、コーヒーの発見は13世紀、教皇クレメンス8世がコーヒーに洗礼を施して公認したのが16世紀だから、パウロの「目を覚まして!」以来千数百年クリスチャンたちは睡魔と戦わなければならなかったことになる。

しかし、自分みたくカフェイン耐性がついてしまうと、もうね、どんなにコーヒーを飲んでも、祈り始めるとやっぱり眠くなってきちゃう。イエスはきっとこう言うんだろうな。。。いつ見ても、眠っているよね。。。もう、いいよ。。。

ゲッセマネ

涙の祈りを終えたイエスが
弟子たちに 近づくと
だれもかれも 気持よさそうに
寝息をたて 眠っていた

イエスは ひとり 祈っている
そして
苦しむイエスのために 祈る者は
今夜も だれも
いない

涙の祈りを終えたイエスが
私たちに 近づくと
私もあなたも 気持よさそうに
寝息をたて 眠っている

イエスは また ひとり 祈りにもどる
そして
わたしたちに 安らぎを与えるために
今夜も ひとり 
目覚めて いる

肉体ばかりか精神までも眠りこけているわたしやあなたを、イエスは今日も静かに見つめている。わたしやあなたのために、ひとり目覚めてイエスは祈り続けている。

イエスの祈りは終わることがなく途切れることがない。なぜなら、イエスこそ目覚めている精神の輝きだから。

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