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今日からオレは!!!

人間は一日に6万回も判断をして、生きているんだって。

そりゃ、脳が疲れるわけだよね。。。

疲れないために、判断の回数を減らす、という戦略があるだろう。マインドフルネスとか、そういうことなのかも。じっと呼吸を整えて、何も考えないようにすれば、たしかに判断の回数は減らせるだろうね。

あるいは、生活のなかでルーティンを増やすとか。毎日おなじ服を着て、おなじメニューの朝食を食べてれば、それだけで、かなり判断が減らせる。

でも、ゆで玉子を自分はきまって朝食に食べるんだけど、出来具合は毎日びみょうに違うんだよね。。。水に玉子を投入し、火をつけ、沸騰して5分で引き上げ、冷ます。それで、ちょうどいい半熟になるはずなんだけど、実際は、固すぎたり、やわすぎたり、なかなか会心作は難しい。たぶん、泡の具合を見て、どの瞬間を沸騰と判断してタイマーをセットするか、という数秒単位の要素が影響しているのかもしれない。

そう考えれば、ルーティンであっても、細かい判断からは逃れられないということか。。。

今日の聖書の言葉。

心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず
常に主を覚えてあなたの道を歩け。
そうすれば 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
箴言 3:5 新共同訳

今年の1月ぐらいだけど、こういう光景を目にした。2歳ぐらいの子に、お母さんがパンを食べさせようとしてた。けど、その子は、母の手をパシッと払いのけて、ぜったい自分で袋からパンを出すって、きかないんだ。かたくなに拒否を貫くので、お母さんは観念して、好きにやらせてた。

人生の主導権はオレが握る!という熱い思いが、2歳児の魂にもメラメラと燃えているんだねー。

楽園で、アダムが「善悪の知識の木の実」を口にしたのも、まさに、それ。オレは、オレの判断で、オレの人生をやりたいんだ、やらせてくれ、という動機だろう、と想像する。

木の実の成分が浸透して、いま、われわれは自分を第一として一日6万回も判断しながら生きている。

それをねー、ぜんぶとは言わないけど、重要な判断については、神にゆだねなさい、と、今日の聖書の言葉は、勧めるんだ。。。

それを「はい、そうします」と簡単に委ねられるか、というと、そのこと自体が究極レベルの重要な判断であるわけだから、多くの人はそこで躊躇してしまう。神にゆだねる、というのは、善悪の知識の木の実をかじるより、一万倍勇気が必要かもしれない。

自分はクリスチャンなので、もうすでに、神にゆだねた気分になっているけれど、よくよく考えてみると、自分の「祈り」が、あの2歳児がやってることと大差ないんじゃないか、と思わされている。


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