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グローリアを聞くと、荘厳で、嬉しくて、同時に、せつなくて、身につまされて、だから、自分も頑張ろって思えるようになる、っていう話です。

学生時代に毎日のように大学図書館の視聴覚室でバッハのロ短調ミサ曲(BWV232)を聞いていた。指揮はカール・リヒター。罪の告白の祈りであるキリエ(主よ、あわれみたまえ)が重苦しい感じで進んで行って、ほんのちょっと沈黙のがあって、そこから一転、天を突き破って垂直に降って来るみたいなトランペットで始まるグロリアが好きだった。そのグロリアの歌詞は今日の聖書の言葉であるルカ 2:14 に由来している *。

今日の聖書の言葉。

いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。
ルカによる福音書 2:14 新共同訳

ロ短調ミサ曲は全文ラテン語のカトリックのミサをベースに作曲されている。バッハ自身は宗教改革で生まれたルター派の篤信家だったので、なんで自分の宗旨と違うラテン語のミサ曲を作ったかについては諸説ある。

バッハ (1685-1750) は 1722年までケーテン候の宮廷楽長を務めていた。ケーテン候はカルヴァン派だったので、その厳格な宗旨に従い、教会暦も聖書日課も無し、礼拝では無楽器で詩編歌しか歌わない、という超簡素主義だった。このためバッハは教会音楽に腕を振るう機会が与えられなかった。しょうがないから、この期間に世俗曲の作曲に精力を注ぎ、『ブランデンブルク協奏曲』(BWV1046-1051) みたいなスゴイ器楽曲をものしている。

でも、1723年に転職した先のザクセン選帝侯領の都市ライプチヒの聖トマス教会はルター派だった。ルター派だから、教会暦、あります! 聖書日課、使います! 礼拝での器楽演奏、OKです! 新しい賛美歌の作詞作曲、どんどんやってください! という教会音楽に大変理解のある環境に変わった。天国かよ。。。おっと、これは別にカルヴァン派が✕✕という意味ではありません。。。こうしてバッハは、巡りくる教会の祝日と聖書日課を題材に礼拝音楽「教会カンタータ」をガンガン制作して行ったんだ。あの名曲「主よ、人の望みの喜びよ」(BWV147の終曲) もこの期間に生まれている。

だけどバッハは晩年にザクセン選帝侯の宮廷音楽監督に転職したかったらしい。その就職活動の一環としてロ短調ミサ曲を作った可能性があるんじゃないだろうか。ザクセン選帝侯は、もともとプロテスタントだったのに、ポーランドの国王選挙への出馬資格を得るため親子でカトリックに改宗したというひと。ポーランドはカトリック国だからね。で、見事当選してポーランド王兼ザクセン選帝侯になった。カトリックに宗旨替えしたお殿さまに対して、自分、ラテン語のミサ曲もこんなに作れますんで、ひとつよろしくお願い申し上げます、スコアを添付しました、バッハ拝、みたいな感じでアピールしたかったんじゃないだろうか。

しかし、転職は実現しないままバッハは死去する。だから、ロ短調ミサ曲が果たしてバッハの存命中に実際に演奏されたかどうか不明なのだ。学者の中には 1859年以前には演奏されたことがなかったのではないか、と言うひともいる。このため、演奏されない純粋に理念上の音楽だった、と言われることもある。

グロリアを聞くたびに自分はバッハのエピソードを思い出す。どういうことかというと。。。人生って、自分が計画し、自分が願い、自分が思った通りにバッチリ行くわけではないよねー、って言うこと。

バッハは全身全霊を注いでラテン語のミサ曲を制作したけど、存命中は一度も演奏されることなく、就職活動も思うようには進まず、この機会をゲットしたら、もっともっとやれるはず、って思いながらも、人生を終えなければならなかった。。。せつないよね。。。

じゃあ、だからといって、力を抜いて、テキトーに流してればいいのか、って言うと。。。いや、バッハは、そうしなかった。アタマのなか、ココロのなかでしか聞こえない「理念上の音楽」をスコアに書きつけながら、もしかしたらこれは一度も演奏されないかもしれない、って予感しながら、それでも手を抜かずにやり遂げよう、という思いで制作したんだ。

その姿勢は、バッハがどのスコアのはじめにも J.J.と書き、どのスコアのおわりにもS.D.G.と書いたことに、よく表れているんじゃないかと思う。

J.J. = Jesu Juva!(イエスよ助けてください!)

S.D.G. = Soli Deo Gloria!(神にのみ栄光があるように!)

一生懸命考えたアイデアや提案や献策が、ぜんぜん採用されないなんて、しょっちゅうあることだけれど。。。採用されないのは、採用されるに足りるクオリティーに達していないから、というのは百も承知なんだけど。。。

でも、たとえ日の目を見ることが無くって、永久にお蔵入りになったとしても、バッハの精神で行けば、いいじゃん、それでいいじゃん、ぜんぜんそれでいいじゃん! って思えるようになるから不思議だ。

バッハは、もちろん自分の満足のためにも仕事をしてたと思うけど、それだけではないよね。だって、いつもはじめは J.J.で、いつもおわりはS.D.G.だもん。つまりそれは「神のココロの満足」を求めてやっていた、ということだ。

今日の自分はどうだろうね。。。自分の満足だけじゃなく、神のココロの満足を求めて生きているだろうか。一日のはじめをジェイジェイ(イエスよ助けてください!)そして一日のおわりをエスディージー(神にのみ栄光があるように!)ってやっているだろうか。。。

いと高きところには栄光、神にあれ
  地には平和、御心に適う人にあれ
**

註)
*  ラテン語聖書の本文では Gloria in excelsis deo et in terra pax hominibus bonae voluntatis となっている。
**「御心に適う」とは、新約聖書のギリシャ語本文ではユードキアという言葉が用いられていて、意味は、ココロが完全に満足して喜ぶ、ということだ。この文脈だと、まさに「神のココロの満足」ということになる。


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