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最後の最後に残る、ほんとうのほんとうは何か? それは愛だ、っていう話です。

お釈迦さまは、生まれたときに、スクッと立ち上がって天を指しながら、こう言ったんだって。

天上天下唯我独尊てんじょうてんげゆいがどくそん

意味は、「宇宙の中で私より尊い者はいない」っていうこと。。。

スゲー自己評価、高い。っていうか、高過ぎ。究極のプラス思考じゃん。

しかしねー。。。

新約聖書には、これを超える発言が、登場する。

イエスが語った言葉。これだ。

今日の聖書の言葉。

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。
マタイによる福音書 24:35 新共同訳

まあ、べつに、お釈迦さまとイエスを競わせるわけじゃないんだけど。。。

でも、あえて比べてみると。。。

天上天下(宇宙)において自分がイチバン! っていう宣言をした場合、それは、宇宙というフレームの枠内でのイチバンっていうことになるよね。

ところが。。。

天地(宇宙)は滅びても自分がイチバン!っていう宣言をした場合、それは、宇宙というフレームを軽々と超えて行く、宇宙ナンボっていう感じだ。

なので、お釈迦さまとイエスのイチバン宣言を単純比較すると、インパクト度において優位するのは、イエスだ、ってことになるんじゃないかと思う。

それにしても、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」みたいな超大胆な発想を、イエスはどこから思いついたんだろう?

イエスはユダヤ人として育ったので、幼い頃からトーラー(ヘブライ語で記されたモーセの律法)を暗記するほどまでに教え込まれた。

少年イエスがエルサレムの祭礼で迷子になって、あわてた父ヨセフと母マリアがあちこち探し回ったあげく、神殿の境内で律法学者たちと討論しているイエスを見つけた、っていう逸話がある。

12歳のイエスは、律法学者たちが舌を巻くほどトーラーに通じていたらしい **。

ユダヤ教のコミュニティーで子どもたちにトーラーを教える役回りを持っていたのが、ラビ(律法学者)たちだったんだけど。。。

少年イエスは、いったいどんなラビから教えを受けて育ったんだろうね?

イエスと同時代と思われる律法学者に、ハナニヤ村のラビ・ハラフタというひとがいた。

ラビ・ハラフタは、こう説いていたんだって。

二人または三人が共に律法を学ぶところには、神の栄光(シェキナー)が共にいる。
タルムード「ピルケ・アヴォート」第3章

これって、おもしろいよね。だって、イエスが似たようなこと、言ってるんだもん。

これだ。

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
マタイによる福音書 18:20 新共同訳

もしかして、もしかしたら、少年イエスはラビ・ハラフタの教えをおぼえていて、それをパクったんだろうか?

ラビ・ハラフタが住んでいたハナニヤ村っていうのは、タルムードの「バヴァ・メツィア」という章で「ハナニヤ村(カファル・ハナニヤ)はカナ村(カファル・カナ)である」と言われている。

つまり、ハナニヤ村って、イエスが水をブドウ酒に変える奇跡を行った、あのカナ村なんだ(ヨハネ 2:1-11)。

これって、パクろうと思えば、パクれる距離感かも。。。

しかし、ラビ・ハラフタの発言と、イエスの発言と、比べてみると、似ているところもあるけど、違うところも、あるよね。

ラビ・ハラフタは言う。

二人または三人が共に律法を学ぶところには
神の栄光(シェキナー)が共にいる

対して、イエスは言う。

二人または三人がわたしの名によって集まるところには
わたしもその中にいるのである

イエスはラビ・ハラフタの教えを知ってた、と仮定してみよう。。。

かつ、イエスの発言は、ラビ・ハラフタの発言をふまえたもの、と仮定してみよう。。。

そうすると、もしかして、もしかしたら、イエスは自分自身を「神の栄光」(シェキナー)と同一視していたのかも? ってことが考えられ得るよね。

シェキナーは、もともとは「留まる」とか「宿る」という意味の言葉だったんだけど、第二神殿時代(バビロン捕囚後)のユダヤ教では「神の臨在が人間の目に見える輝きとなって人間のあいだに留まる状態」を指す用語として使われるようになったんだ。

イエスは本気で自分自身のことを「神の栄光」(シェキナー)だと思っていたんだろうか?

これは、メシア=キリストの自己意識の問題だから、イエスの精神にサイコダイブでもしないかぎり、確かめようがないよね。。。

でもねー。。。サイコダイブしないでも、外部から客観的に視認できる状態でそれが発生した、ってことが、新約聖書に記録されているんだ。

それが、いわゆる「変貌山の出来事」と言われるものだ。

イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
マルコによる福音書 9:2-8 新共同訳

同じ出来事を、マタイ 17:2 は「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と書き、ルカ 9:32 は「栄光に輝くイエス」と表現している。

これが、ほんとうに起きた出来事であるとするなら、どういうことになるかというと。。。

イエス=神の栄光シェキナーというのは、単にイエスの精神の内面における自己理解というだけにとどまらず、客観的・実際的・即物的にイエス=神の栄光シェキナーだ、っていうことになっちゃうよね。

ドイツの神学者のカール・バルトは、復活の出来事と同等かそれ以上に重要なのが変貌山、って言ったけど、ほんとこれ、そうなんじゃないかと思う。

だって、第二神殿時代のユダヤ教では、神から出た神の栄光シェキナーは神であり、聖霊もまた、神から出た神の栄光シェキナーである、と考えられていたんだから。。。

すると、父・子・聖霊という三位一体の神観は、ギリシャのロジックから出たものではなく、第二神殿時代のユダヤ教とシームレスに接続している、ってことになるんだよね。

そうして、以上のすべてに念押しするかのように、新約聖書はこう宣言してはばからない。

神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。
へブル人への手紙 1:2-3 口語訳

ほーら、ね。イエス(御子)は、神の栄光の輝き(シェキナー)であり、ゆえに神の本質の真の姿である、つまり「イエス=神」って宣言している。

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない

以上すべてがホントウノコトだと仮定した場合。どうなるかっていうと。。。

たとえ、この先、世界が滅びるようなことがあっても、イエスが自分に対して言ってくれた言葉は、決して消え去らない、ってことになるんだ。

イエスは、どんな言葉を自分にかけてくれているのか。。。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
ヨハネによる福音書 15:9 新共同訳

そう。愛なんだよね。愛。最後の最後に残るもの。それは、愛なんだ ***。

註)
* Cf. フィリピ 2:6-9
** Cf. ルカ 2:41-47
***  Cf. コリント一 13:13

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