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「神」について何か言おうとするのは、そもそも無理筋とわかりつつも。。。

他人に対しては、こころを広く、ゆるやかに、包容力をもって接したい、と常々思っているのだけれども。。。

すーぐ、許容量いっぱい、になっちゃうんだよね。

先週も、とある出来事があって、ブチ切れ寸前まで行った。。。

まあ、かろうじて回避したけど。

主に感謝、主に賛美。

今日の聖書の言葉。

主は恵み深く、慈しみはとこしえに
主の真実は代々に及ぶ。
詩編 100:5 新共同訳

人間の言語によっては「神」について記述することは不可能である、とする否定神学(Apophatic Theology)っていう考え方がある。

神はあらゆる事柄や概念を超越している絶対他者だから、許容量に限界がある人間の理解には収まらない、つまり、神について言語で記述するのは無理、という考え方だ。

旧約聖書に描かれている神って、怒ったかと思うと、ゆるしたり、ゆるしたかと思うと、怒ったり、かくれたかと思うと、姿をあらわしたり、あらわれたかと思うと、長い沈黙に入ったり。。。もうね、いろんな記述が交錯している。

その錯綜する記述を読んで、矛盾していると考えるのか、あるいは、許容量ぎりぎりでなんとか「神」を収めようと葛藤する表れと考えるのか。それは読み手次第なんだけど。。。

なので、「今日の聖書の言葉」の一節だけひっぱってきて、「神」について何か言おうとするのは、そもそも無理筋なんだよね。。。

もうね、最初から最後までずーっと聖書を読むしか、ない。拾い読みするのではなく、ぜーんぶ読み通すしか、ない。何度も、何度も、くりかえし読むしか、ない。

イスラエル・ユダヤ人の離反に対して大厄災をもたらした、怒れる「神」と、永遠に恵み深く・いつくしみ深く・かわらない真実をつらぬく、慈愛の「神」と。。。

自分の限界ある許容量では、あきらかに収まりきらない矛盾なんだけど。。。

でも、その錯綜する「神」の概念が衝突し、時間と空間の中にバーストして歴史の出来事となったのが、イエス・キリストの十字架と復活なんじゃないか、と思う。

さっきの否定神学の論者のひとり、ニコラス・クザーヌス(1401-1464)は、永遠と有限、極大と極小の両極端を統合するのが「神」だと言っているんだけど。。。イエスのうちには確かにそれらが統合されている、と自分は感じるんだよね。

創造主と被造物。
全能と無力。
無限と有限。
永遠と時間。
神の義と罪の赦し。
神の聖定と人間の自由意志。。。

これらの矛盾をすべて統合して、許容量の小さな人間のハートにすっぽり収まるように、神は小さくなって、ベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶のワラの上に降りたってくださった。

そのイエスを、自分はいま、こころの中に抱き締めようとする。

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