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未完成の存在として今日という過程を生きる。

小学生のころ「短編映画」というのが教育テレビでよく放映されてた。1970年代のことだ。

人間国宝の職人が一個の工芸品を仕上げるまでのプロセスに一年以上張り付いて撮影したという映画が多かった。

それこそ「見入る」という感じで見てたなあ。

今のハイビジョンとかYouTubeの画質と違うセルフィルムの陰影と粒子の具合が、またよかったんだよねー。

今日の聖書の言葉。

なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
エフェソの信徒への手紙 2:10 新共同訳

イエス・キリストは大工で家具職人だったとも言われている。

福音の宣教を開始する30歳より前のイエスは、どんな家具を作っていたんだろう?

死海の洞窟から最近みつかった聖書の写本の断片が話題になっているけれど、「イエスが作った家具、発見!」みたいになったら、すごいよね。オークションでどれほどの値が付くことか。。。

聖書は「わたしたちは神に造られた作品だ」と言っている。なんと、この自分が、神の作品だ、というわけ。。。恐れ入ります。。。

わたしたちは神に造られたもの

小学生の頃に見た、漆に蒔絵をほどこした工芸品が出来るまでを描いた「短編映画」を思い出す。

職人さんが山に入ってウルシの木から樹液を取るところからスタートするんだけど、削りだした木を箱に組み合わせて、その上に漆をなんども塗り重ねるんだ。

その過程の途中の箱は、ぜんぜん「見てくれ」が良くない。ごつごつして、よごれてて、こんなのが? という感じ。

螺鈿(らでん)の貼り付けが始まっても、まだ薄汚れている。

でも、最後の磨きにかかると、ピカーッと作品が輝き始めて、ついに完成するのだ。

キリスト・イエスにおいて造られた

自分が、神という職人の手のなかにある作品だとして、じゃあ、完成までのプロセスのいったいどの辺に自分は今いるんだろう?と考える。

まあ、未完成であることだけは確かなんだけど。

神はひとをご自身のかたちとして創造された。
創世記 1:27 新改訳2017

仕事にとりかかる職人の心には、すでに完成した作品の姿が思い描かれているんだよね。

神の心のなかにも完成された人間のビジョンがすでに存在していて、そのビジョンこそが「イエス・キリスト」なんだと思う。

なので、神の作品である自分が完成されるとは、自分がイエス・キリストに似た姿に変えられる、ということなんだ。

このことについて、ヨハネの手紙一3:2 (新改訳2017) で、こう言われている。

私たちは、キリストが現れたときに
キリストに似た者になることは知っています

未来のある時点に、イエス・キリストが再び来て、その瞬間、自分は神の作品として完成され、イエスに似た者に変えられる、ということ。

それが、いったい、いつなのか? 完成される前の段階である今、自分はどう生きたらいいのか? 

それについても、聖書はヒントを与えている。

わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ前のものに全身を向けつつ、 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
フィリピの信徒への手紙 3:12-14 新共同訳

つまり。。。

● 申し訳ありませんが、本日の時点で、自分は未完成の作品です。
● しかし完成に向かって進んでいるつもりです。聖書もそう言ってます。
● なので、昨日までのこと、というか、1時間前までのこと、いや、5分前のことすら忘れて、気持ちを切り替えて前向きに取り組んで行きたいと思います。
● 完成を目指して、イエス・キリストに似た姿に変えられる瞬間に向かって、ひたすら進んで参ります。
● それまでは、いろいろご迷惑をおかけするかと思いますが、スミマセン、生暖かい目で見守っていただければ幸いです。
● 応援もひとつよろしくお願いいたします。

。。。こんな感じだろうか。

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