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薄い夢、濃い夢、ほんとうの夢

自分は就寝中、あんまり夢を見るタイプでは、ない。

ていうか、夢を見ているかもしれないけれど、起きた時点で、何も覚えていない。

覚えてないぐらいだから、よっぽど、薄い内容の夢なのだろうと思う。

でも、20年ぐらいまえのことだけど、一回だけ、目が覚めたあとも強く記憶に残り続ける夢を、見たことがある。あまりに濃い夢だったので、文章化すら、してしまった。これだ。

この夢を見たときは、なんともいえない幸福感をおぼえた。目が覚めたとき、まだその幸せな余韻が、じーん、と心に残っていた。こんな夢は、これきり、一度だけだ。

今日の聖書の言葉。

わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。
エレミヤ書 31:25 新共同訳

疲れた魂がうるおされ、衰えた魂に力がみたされる。。。

でも、エレミヤが経験した、これって、実は、夢だったんだ。なぜなら、次の26節で、こう言われているから。

ここで、わたしは目覚めて、見回した。それはわたしにとって、楽しい眠りであった。
エレミヤ書 31:26 新共同訳

なんだ。。。夢かよ。。。でも、楽しい夢だったな。これが、ほんとだったら、よかったのに。。。

そして、預言者エレミヤは、ふたたび、つらい現実に、引き戻される。

どれだけ、つらいかというと、神に背を向けたイスラエルの民は、どんどん衰退し、強国に侵略され、ついに、滅ぼされてしまうのだ。その滅亡の日、紀元前587年5月10日の出来事を、エレミヤ自身、こう記録している。

五月十日、バビロンの王ネブカドレツァルの第十九年のこと、バビロンの王の側近である親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、 主の神殿、王宮、エルサレムの家屋をすべて焼き払った。大いなる家屋もすべて、火を放って焼き払った。
エレミヤ52:12-13 新共同訳

炎に焼け落ちるエルサレムを目撃したエレミヤは、涙の歌である「哀歌」を書き残し、それは、聖書のなかに収められている。神に愛された都が、神の裁きによって、焼き尽くされるという、とうてい理解不能な出来事を体験させられて、エレミヤの心は、底の底まで、落とされた。

わたしは 主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った者。
闇の中に追い立てられ、光なく歩く。
そのわたしを、御手がさまざまに責め続ける。
哀歌3:1-3 新共同訳

でも、エレミヤは、その苦しみのただなかで、かつて見た「夢」を思い出したんだ。あの楽しい夢、心地よい夢、幸せな気持ちにしてくれた夢を。。。

そして、エレミヤは、信じたんだ。あの夢が、きっといつか、ほんとうになるに、ちがいない。それを、待とう、って。

主の慈しみは決して絶えない。
主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。
「あなたの真実はそれほど深い。
主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い
わたしは主を待ち望む。

主に望みをおき尋ね求める魂に
主は幸いをお与えになる。
主の救いを黙して待てば、幸いを得る。
哀歌3:22-26 新共同訳

悲惨な現実のなかで、いったい、なにが、どうなったら、幸せな気持ちになれるんだよ?と、思ってしまう。。。けれど、エレミヤは、こう信じた。

「主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い
わたしは主を待ち望む。

どんな慰めも通じないほど、魂は痛んでいる。けれど、もし神が、神のすべてを、自分にあたえてくれて、自分の魂が、神のすべてで、満たされるなら、そうすれば、あの夢は、ほんとうになり、自分は満足できる。だから、待とう。。。

そして、神は、神のすべてを人類に与えるために、神をおもいきり小さくして、ベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけの上に、降り立たれた *。

なぜって、それぐらい小さくならないと、神は、わたしたちの魂のなかに、入ることができないからだ。

「赤ちゃんイエスさま」

その無力さのなかで
ごじぶんのすべてを
みんなに差し出している
赤ちゃんイエスさま

ぼくたちが
りきみをすてて
やさしくなって
しずかにゆっくりと
だきしめないと
いけないもの

おそるおそる
おずおずと
でも
しんじて
てをのばせば

赤ちゃんイエスさまは
ごじぶんを
たくしてくださる
ぼくにも
あなたにも

ご託身の
ミステリオン **

註)
* Cf. ルカ 2:6-7
** 「ご託身」 三位一体のうち子なる神が、ナザレのイエスという歴史的人間性を取ったこと。受肉とも言う。
「ミステリオン」 目に見えない神の恩寵が、目に見えるかたちで現われること。秘跡、サクラメント、機密とも言う。

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