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#991 愛することに失敗する、失敗し続ける、ダメじゃん。。。っていう話です。

世の中にはいろんな歌があるよね。。。

愛のはじまりをうたう歌。
愛の苦しさをうたう歌。
愛の破局と悲しみの歌。
過ぎ去った愛を想起する歌。

愛がうまく行った系の歌と、愛が壊れた系の歌と、単純に二つのカテゴリーに分けて計量したら、どっちのボリュームのほうが大きいんだろう?

なーんとなくだけど、愛が壊れた系のカナシイ歌が多い気がするよね。あくまで個人の感想です。諸説あります。

今日の聖書の言葉。

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
ヨハネによる福音書 13:34 新共同訳

愛って壊れやすいものだから。。。

だから、人類は「永遠の愛」という概念を考え出して、希求するようになったんじゃないかと思う。

問題は、永遠の愛という言葉(シニフィアン)と概念(シニフィエ)は存在するにしても。。。それは、われわれの口の端に上るし、印刷された紙にだって載っている。。。だけど、永遠の愛という概念に対応した実在(レフェラン)としての永遠の愛が、ほんとに宇宙に存在するのか? ってことだよね。。。

それについて、実在する!っていう立場で書かれたのが聖書だと思うんだけど。。。

じゃあ、永遠の愛をオレに見せてくれ、ってなって、で、「はい、これです」って見せられるか、っていうと。。。

そこがなかなかむずかしい。

それについて、イエスのプロジェクトでは、こういう予定になっていたんじゃないかと思う。

まず、永遠の愛というモノが永遠から永遠に存在している。実在としての永遠の愛。それが「神」だね。

証拠聖句がこれ。

神は愛です。
ヨハネの手紙一 4:16 新共同訳

で、永遠の愛である「神」がひとのかたちをとって地上に降り立った。それがイエスだ。

証拠聖句がこれ。

神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
ヨハネの手紙一 4:10 新共同訳

イエスの十字架と復活の出来事は、永遠の愛である「神」が無条件にわれわれを愛していることを示す目に見えるアイコンなんだと思う。

で、イエスのプロジェクトの結論部分はどうなるかというと。。。

われわれは無条件に「神」から愛されているので、われわれもだれかを無条件に愛することができるようになるはず。

無条件にだれかを愛するなんて超ハードルが高く思えるけど、その不可能を可能にするために、永遠の愛である「神」が動力となってわれわれのハートに注入された。それが聖霊だ。

証拠聖句がこれ。

神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。
ヨハネの手紙一 4:13 新共同訳

だから、聖霊を受けて、だれかを愛しなさい、っていう結論になると思うんだけど。。。

その証拠聖句がこれ。

(イエスは)彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
ヨハネによる福音書 20:22-23 新共同訳

でもねー。。。

残念ながらこのプロジェクトは結論部分の最後のところで立ち止まっているように自分には思える。

ほんとうにこの単純なこと。。。聖霊を受けて、だれかを愛する、っていうことを実践するためにクリスチャンたちは2000年をついやしながら、本日現在もまだ完全にはできていないもん。

それはほんとうに残念なことだ。もちろんその責任の一端は自分にもあるわけで。。。

でも残念さを感じれば感じるほど、やっぱりあのアイコンに自分の目を向けるしかないよなー、って思う。

永遠の愛である「神」が無条件にわれわれを愛していることを示す、イエスの十字架と復活というアイコン。。。

ほんと、そこに目を向けて祈るしかない。

だから、今日もこの祈りを祈るんだ。

主イエス・キリスト、神の子、救い主
罪びとのわたしを、いつくしんでください

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