#928 億劫がらずに生きる、っていう話です。
自分ひとりで事にあたっていて、どうにも手詰まりになって、困り果てるようなとき。。。
「あー、だれかいてくれたら」って思うよね。
ほんと、猫の手でもいいから助けてほしい。
ところがねー。。。
じゃあ、実際だれかが来てくれたら、万事上手く行くか、っていうと。。。
それはそんなに簡単ではない。
だって、猫と違って人間はみんなそれぞれ考え方の違いがあるからねー。
なので、自分はこれをこうしたいから、ここを助けてほしい、って思っているのに。。。
相手は、いや、そうじゃない、あれをああした方が良いに決まっているから、あれをする、とか言い出したりして。。。
でもって、ふたりの意見が正面からぶつかるような時には、どうしようもない。。。
思わず「こんなことなら、ひとりでやってたほうがよかった」って、ため息が出てしまうよね。
今日の聖書の言葉。
ふたりで事にあたる方が、そりゃあベターに決まってるだろうけど。。。
でも、ひねくれている自分は、こう思っちゃう。
ふたりで問題に向かうときに、問題それ自体が有する労苦と、問題に対処するためにふたりの間を「調整」する労苦と、どっちの労苦がより大きなエネルギーを要求するんだろうかね ( ̄ー ̄)ニヤリ
なんか年齢のせいかもしれないけれど、そういう調整をやる、ってことを最近なんだか億劫に感じるようになって来ている。
億劫(おっくう)というのは、膨大な宇宙論的時間をあらわすインドの単位で、1劫は43億2000万年に相当すると言われているんだって。
億劫は1劫の1億倍だから、単純計算で43京2000兆年っていう気が遠くなるボリュームになる。
自分と他人のあいだを億劫がらずに調整する、ってことに必要なのは、あきらめず・めんどくさがらず・相手に向き合い続ける「気の長さ」なんじゃないか、って思うんだけど。。。
にしたって、43京2000兆年を余裕で待てる気の長さは、自分には無いよなー、って思う。
ってか、絶対無理じゃん(笑)
C.S.ルイスが書いた神学的ファンタジー『天国と地獄の離婚』というのがあって、地獄の光景が描かれているんだけど。。。
われわれのイメージに反して、ルイスが描く地獄は、すごい自由な世界だ。
なにせ地獄の住人は、そのアタマで考えただけで、どんなものでも自分の目の前に出現させることができるのだから(ルイス説)
そのようにして、なんでも手に入る地獄の住人たちなんだけど。。。
しかし、残念なことに彼らはどうしても自分と他人の折り合いをつけることができない。
結果、地獄の住人たちはお互いにどんどん離れて住むようになり。。。
どれぐらい離れるかと言うと、それこそ何百光年もの距離をお互いがお互いに取って、バラバラに住んでいるんだ。
いま、時間と空間の制限のなかで生きている自分にとっては、目の前に二つの選択肢が置かれているんじゃないかと思う。
それは、億劫がらずに他人と折り合いをつけて生きるのか、それとも、億劫がってひとりで生きるのか。
そういう選択肢だ。
興味深いことに、どちらを選ぶにしても、この地上での人生は短すぎると感じられるんじゃないだろうか?
だって、長生きしても80年ぐらい? 他人と折り合いをつけて生きるにしても、他人を遮断してひとりになるにしても、短すぎる。
全然億劫には足りないよね。
なので、聖書に「永遠の命」というパワーワードが繰り返し出て来るのは、そういう人間の現実的な必要に応じて生成されたものなんじゃないのかなー、って思ったりする。
あくまで個人の感想です。諸説あります。
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