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ゆるし、ゆるされ、生きる

あいつ、絶対ゆるせない、という気持ちを抱えて生きている時間。

神様、わたしをゆるしてください。。。でも、ゆるされた実感が全然わかない、という気持ちを抱えて生きている時間。

前者と後者のカラーで人生を塗り分けたら、どういう配分になるだろう。半々ずつくらいかな。

あいつ、ゆるせない、あいつはおれに罪を犯した、という罪。
自分は、ゆるしてもらえない罪を犯してしまった、という罪。

この2つは、罪ということでいえば、本質的に同じだ。本質的というのは、「神の視点」で見たら同じ、ということ。

本質的に同じとして、外形上は、どれぐらいの種類があるんだろう?

『教会の祈り』(時課)の「就寝前の祈り」では、一日の歩みを反省する「糾明」の時間がある。糾明とは、つまびらかに明らかにすること。

糾明に続いて「回心」の祈りをささげる。そのなかで「わたしは、思い、ことば、行い、怠りによって、たびたび罪を犯しました」と告白する。

思い、ことば、行い、怠り。これで、4種類の罪があるわけだ。

でも、そこからさらに広がるよね。

まず、人生には過去・現在・未来があるわけだから、これで3種類。

さらに、自覚しつつ故意に犯す罪と、無自覚に犯す罪があるので、2種類。

そして、他人に対する罪と、神に対する罪があるから、これで2種類。

以上の組み合わせを計算すると、4×3×2×2=48で、48通りの罪があることになる。

たとえば、善意で発した言葉で相手を深く傷つけてしまった場合などは、「過去に・ことばによって・他人に対して・無自覚に傷つけてしまった罪」ということで、ひとつの組み合わせだ。

加えて、もろもろの罪の根本原因である「神に対する人間の不従順の罪」(原罪)があるわけだから、それまで足せば49になる。

自分が49の罪を犯す可能性があるわけだし、他人も49の罪を自分に対して犯してくる可能性がある。それが、スリリングな宇宙のリアリティーだ。

なんと、それをすべて、ゆるしなさい、とイエス・キリストは言う。しかも49どころか「7を70倍するまで、ゆるせ」と言うのだ。

イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」 
マタイによる福音書 18:22 新共同訳

額面通りに受け取ると、7×70=490で、1日に上限490回まで、ゆるしなさい、ということ。すると、2日間で980回。1週間で3430回。1年で17万8850回。。。

人間の寿命はせいぜい80年と聖書は言ってるので、めいっぱい生きたと仮定して1430万8000回、ゆるすことになる。アタマガオカシイの?

これはもうね。。。常に、瞬間瞬間、息つく間なく、全力でゆるしなさいよ、ということになる。

うむぅ。。

神は、はたして、自分をゆるしてくれているのだろうか? 

もちろん、神のひとり子、イエス・キリストが、人類の罪を身代わりに引き受けて、十字架にかかり、死んで、よみがえったことは、わかる。その全人類のうちに自分も含まれていることも、わかる。

だが、自分は、ゆるされている、という事実をどうしたら確認できるのか?

それを確認する方法が、ひとつだけあるんだ、と今日の聖書は言っている。

今日の聖書の言葉。

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
マタイによる福音書 6:14 新共同訳

自分が、他人の罪をゆるす決断を、いま、する。。。その瞬間、その決断のうちに、天の父なる神は自分をゆるしてくださった、という事実を確認することができる、ということなのだ。

これは、自分の決断と、神の決断が、不可分一体に結合しているというミステリーだ。ゆるす、という決断のなかに、天と地が結ばれているのだから。


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