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言葉・思い・潜在意識の底の保管場所と、総クリアランスの問題。

ネガティブなことばかり朝から晩まで語っているひとって、いるよねー。

そのネガティブさ、って、どこから来ているのか、ってことを考える時、いろんな説明の仕方があると思うんだけど。。。

現代の科学によれば、セロトニンという神経物質の分泌量が少ないとネガティブな思考に陥りやすい、ということみたい。で、日本人は欧米人に比べるとセロトニンの量が50パーセント少ないんだって。。。ホントかよ。。。

まあ、アメリカではピアノを片手でひける程度でも履歴書に「ピアニストです!」って書いちゃうひとがいるみたいだから、確かにセロトニン、関係しているのかもねー。

今日の聖書の言葉。

善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。
ルカによる福音書 6:45 新共同訳

良い言葉は、良い倉から。悪い言葉は、悪い倉から。。。

ここでイエスが言ってる「倉」というのは、人間の心のことだよね。

自分は中学生の一時期、真剣にお坊さんになろうと思って大乗仏典を読み漁ってたことがあって、おもしろいなあ、と思ったのは、悟りとは、すべてのものごとに実体が「無い」ってことを悟る、ということなんだけど、じゃあ、悟りを開いたひとが「あ、自分は悟った!」と感じた瞬間の「認識」は実体があるのか・ないのか? という問題。。。

だって、すべてに実体が無いのなら「認識」にも実体が無いことになり、だったら、悟った!という認識も実体が無いことになって、悟りそのものが無いことになっちゃう。。。

この「認識」の有無をめぐって仏教は袋小路に入っちゃうんだけど、中観派のひとたちが思想的な格闘を行った末に「アーラヤ識」という説明理論を構築することによって、大乗仏教へと打通したんだ。

それは簡単に言えば、「認識」は、あるわけでもなく・ないわけでもない、ということなんだけど。。。どっちやねん。。。

どういう説明をするかというと。。。

人間の意識は、表層意識と潜在意識のあいだをぐるぐる循環している。で、意識は、表層意識から深海にもぐるように潜在意識に沈んでいって、その底でインターネットのパケットみたいに分解されて「倉」のなかに保管される。で、次のタイミングになると「倉」からパケットが取り出され、再び合成されて意識となり、表層意識へと上って行く。こうして意識が生成されるんだ。

で、潜在意識の底にある「倉」のことを「アーラヤ識」と言うんだけれど、表層意識→下降→潜在意識→パケットに分解→倉に保管→取って出し→再合成→浮上→表層意識という1サイクル(刹那)が回るのが、だいたい3秒らしい。なので、瞑想していると3秒ごとに自分の意識が切り替わるのがわかるひともいるんだって。スゲー。。。

この説明理論のすごいところは、パケットが汚染されていると、それが汚染された意識となって永久にぐるぐる回り続ける、ということ。だって、ずーっと同じパケットが合成と分解を繰り返して意識を生成しているわけだからねー。

だから、ネガティブな意識は永遠にネガティブなマインドを生み出し、そこからは永遠にネガティブな思考と発言しか出て来ないという。。。オソロシヤ。。。

この状態から救われるためには、もうね、外部から汚染されていないパケットをひっぱってきて注入するしかない。

その、きれいなパケットのことを大乗仏教では仏種と言うんだけれど、外部由来のクリアーなパケットが必要っていう考え方は、新約聖書とちょっと似てるなあ、と思う。たとえば、この聖句。ヨハネの手紙一 3:9 だ。

神から生まれた人は皆、罪を犯しません
神の種がこの人の内にいつもあるからです
この人は神から生まれたので
罪を犯すことができません

ここに示されている革命的な考え方は。。。自分の考え方のクセを直す、とか、あたらしい習慣を身に着ける、とか、気の持ちようを変える、とか、感情をコントロールするとか、そういうことでは、ぜんぜん、ない。

意識を構成しているパケットそのものを、外部からもってきた新しいパケットと総入れ替えしてしまう、という考え方だ。

で、その外部からもってくるリゾースというのは、クリスチャンの場合は、新約聖書にはっきり示されている。それは、イエス・キリストであり、イエスの臨在であるところの聖霊にほかならない。

自分の意識がイエスと総入れ替えになった感覚というか境地のことを、パウロはこういう言葉で述べている。ガラテヤの信徒への手紙 2:20 だ。

生きているのは、もはやわたしではありません
キリストがわたしの内に生きておられるのです

まあ、たしかに、こういう境地になれたら、自分の内側から出て来るのは、良い言葉・良い思い「だけ」になってしまうんだろうねー。自分も早くその境地になりたいものだ、と願っているんだけれど、どうも、まだ、時間がかかるみたい。。。ひとによっては、スグそうなってしまう場合もあるみたいなんだけど。。。

パウロは、時間がかかる場合があることを暗示している。こんな感じ。ガラテヤの信徒への手紙 4:19 だ。

キリストがあなたがたの内に形づくられるまで
わたしは、もう一度あなたがたを産もうと
苦しんでいます

うーん。。。どうも、ね、なかなか一筋縄ではいかない雰囲気をこのパウロの言葉からは感じる。

そりゃ、そうだよね。表層意識だけだったら、いくらでもカッコウをつけて、自分で自分をごまかすことだってできちゃうけど、潜在意識の底の底までキリストに置き換えられてクリアーになる、なんてことは、ほんと、時間がかかると思う。そこまで行ったら、顔はニコニコしてても腹にイチモツ持っている、なんて状態が解消されてしまうどころか、夜ねむる時にみる夢までキレイになってしまうんだろうねー。。。めっちゃ憧れる。。。

それは遠い目標ではあるけれど、でも、あきらめないで、追求してみよう。パウロもこう言っていることだし。フィリピの信徒への手紙 3:12-14 の言葉だ。

わたしは、既にそれを得たというわけではなく
既に完全な者となっているわけでもありません

何とかして捕らえようと努めているのです
自分がキリスト・イエスに
捕らえられているからです

兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは
思っていません

なすべきことはただ一つ
後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ
神がキリスト・イエスによって上へ召して
お与えになる賞を得るために
目標を目指してひたすら走ることです

というわけで、昨日までのことは完全に忘れて、いまこの瞬間から先に向かって、ひたすら身をのばして行こう。


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