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なんどでも戻って来る闇を払う

自分が、いま、あきらかに、闇の力によって浸食されているよなあ、と感じる瞬間が、たまに、というか、ときどき、ある。

イエスさまは、神の栄光の輝きであり、そのイエスさまが、自分の中にやどっていてくれるんだから、心から闇は消え、一点の曇りもない、と、胸を張って言いたいところだけど。。。

たしかに、そう言えるときも、あるには、あるんだけれど。。。

でも、あれっ、オレ、いま、闇のなかじゃん?と、思ってしまうときも、あるんだ。

今日の聖書の言葉。

御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。
コロサイの信徒への手紙 1:13 新共同訳

ダメクリ、でもクリ、どんなクリ、と、クリスチャンを揶揄するフレーズがある。いまだ闇にとらわれてしまうクリスチャンって、カテゴリー的にはヤミクリか。。。

イエスさまは勝利者であり、わたしたちを闇の力から解放してくれた。。。はず。。。なのに。。。なぜ、ときどき、闇が浸食してくるんだろう?

むかし読んだ、ある本では、こう説明していた。タイトルは、わすれてしまったけれど。。。

クリスチャンの精神生活というのは、古い家を、あたらしい主人が購入するようなものだ。代価が払われ、家の所有権は、あたらしい主人に移った。あたらしい主人というのは、イエス・キリストだ。で、自分は、というと、家の管理人として、居続けることになった。ある日、あたらしい主人がやって来て、居間を占拠した。ところが、管理人である自分は、職務怠慢で、台所の通用口を開けっ放しにしていたものだから、猫が入り込んで、そこらじゅう、しっちゃかめっちゃかにしてしまった。あたらしい主人は、猫を外にだすんだけれど、しばらくすると、また猫がもどってくる。。。だって、管理人である自分は、いつだって、通用口を開けっ放しにしているから。。。

神と和解せよ、という看板をイタズラして、ネコと和解せよ、に細工するひとがいるけれど、たとえ神と和解しても、心の通用口をあけっぱなしにしていたら、いくらでも猫はもどってきてしまう、ということなんだね。。。

その通用口を、ぴしゃりと閉めてしまうことができればいいんだけれど、気をゆるすと、それは、いつのまにか開いている。そして、自分は、闇に出くわす。。。

こうなったら、もうね、何度でも、口に出して言うしかないんだ。イエスは勝利者だ!って 。

ネコ



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