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神から出た神は神。あるいは、自己脱自的な愛という構造。

絶対見るな。見たら死ぬ。。。って言われると、どうしても見たくなっちゃう。で、見ちゃって、結果、死ぬ、っていう。そういうストーリーが日本の昔の説話にけっこう出て来るよね。

それとはまあ違うけど、でも、似てなくもないのが、旧約聖書に出て来る「神を見たら死ぬ」という考え方だ。

日本の世界観の場合、草や虫から人間、動物、神々にいたるまで、ぜーんぶゆるやかなラインでつながっていて、すべての存在が漸進的に神々になっていくような感じになっている。

そういう「ゆるやかな世界観」であっても、見たら死ぬ、という危険なエンティティーがいろいろあるわけで。。。

それに対して、旧約聖書の世界観は、神は、神以外のあらゆる存在から絶対的に隔絶している、というとらえ方になっている。神はすべてのものに対して切り立つ断崖絶壁のように、とりつくしまがない、という感じなのだ。

だから、基本、われわれはダイレクトに神に触れることができない。触れると、死んでしまう、ってことになる。その危険性たるや、アリが100万ボルトの送電線の上を歩くみたいなものだ。。。

今日の聖書の言葉。

主を、主の御力を尋ね求め 常に御顔を求めよ。
歴代誌上 16:11 新共同訳

にもかかわらず、の、今日の聖書の言葉。

人間はダイレクトに神に触れることはできないけれど、「神の力」や「神の御顔」には触れることはできるよ、という招きの言葉になっている。これは、絶対他者である神をめぐるイスラエル・ユダヤ人の神学的な格闘から生まれて来た言葉なんじゃないかなー、と思う。

その考え方というのは、どういうのかというと、絶対他者である神からエンティティーが流出する。エンティティーには、神から出た「神の霊」とか、神から出た「神の臨在」とか、神から出た「神の言葉」とか、いろいろあるんだけど、おもしろいのは、神から出た「神の後ろ姿」というのがあるんだ。神を見たら死ぬけど、神の後ろ姿なら、見ても死なない *。つまり、神から出たエンティティーに対しては、ダイレクトに触れても、人間は死なないのだ。このエンティティーって、いったい、どういうものなのか、気になるよね?

自分の考えでは、たぶん、神は、基本的な神としての在り方から脱自的に超越することによって、愛の対象である人間へと向かって行き、そのようにして、神は人間に触れることで、神が人間とまじわりを持とうとするのだ。自己脱自的愛という構造だね。

これらのエンティティーについては、「神から出た神は神」という簡単な定式で扱われていたらしいんだけど、それが、後期ユダヤ教(第二神殿時代のユダヤ教)になってくると、だいたい三つぐらいのエンティティーに集約されていった。それが、神から出た「神の言葉」(メムラ)、神から出た「神の臨在」(シェキナー)、神から出た「神の栄光」(イェカラ)だ。

メムラは神。シェキナーは神。イェカラは神。でも、三人の神々がいるわけではなく、ただひとりの神だけがいる。。。こういうふうに後期ユダヤ教のラビたちは考えてたらしいんだけど、これって、キリスト教の三位一体の考え方にそっくりだよね。

こっから、三位一体という「神概念」は、ユダヤ教にあとから取って付けた異質なものではなくって、むしろ、ユダヤ教の有機的な発展の自然な延長線上に三位一体があるんじゃないかなー、って、自分なんかは思っちゃう。

絶対他者である神は、人間を愛するゆえに、神としての在り方を脱自的に超越して、人間のもとへと向かって行く。いつも・たえず・つねに・人間に向かい続ける「神の顔」。。。それが、ひととなった神であるイエス・キリストだ。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
フィリピの信徒への手紙 2:6-8

絶対他者である神。その神の「神の顔」は、草や虫から人間、動物、赤ん坊から年寄りにいたるまで、静かに、にこやかに、向けられている。向けられ続けている。われわれは、いつでも、いま・この瞬間でも、その、神の顔=イエス・キリストを、仰ぎ見ることができるのだ。

註)
*  Cf. 出エジプト 33:23

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