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敵認定から戦友愛に移行できるかどうかという難しい課題。

ひとの言葉やふるまいが「公正」から著しく逸脱してると、わたしたちは否応なく反応してしまう。

「えっ、これ、おかしいんじゃない?」という感覚。

その感覚が自分の内側に、不安、怒り、恐れ、失望などいろんな感情を引き起こす。そのエネルギーは大きい。

そのネガティブなエネルギーが強い場合には、「おかしい」ことを是正する行動に出るよう、わたしたちは駆り立てられる。

その行動は、相手に面と向かって注意する個人のレベルから、国連安保理の決議で多国籍軍を送って武力で制裁する国際社会のレベルのあいだで実に多岐にわたっているよね。

なんでそうなるのか。。。

人間って、無意識に規範を参照しながら生きているんだと思う。

規範意識は良心と呼ばれることもあるけど、じゃあ、実体として「良心」が身体のどこかに存在しているのかと問われると、それはよくわからない。まあ、そのうち大脳の特定部位が良心の器質だと解明される日が来るかもしれないけれど。

そのように謎でありながらも、人類が普遍的に経験していることがあって、それは、こんな感じじゃないだろうか。。。

● 自分は無意識に規範を参照しながら生きている
だから、規範から逸脱する者にはネガティブな感情を抱く
そうであるにもかかわらず、自分も規範を逸脱することがある
このため、他者から攻撃されないよう自分の逸脱行為は隠蔽する
この状態はダブルスタンダートだから、最悪の逸脱で、それゆえ自分は自分にネガティブな感情を抱く

ほんと、人間って矛盾した存在だよね*。

その塗炭の苦しみをパウロは叫ぶがごとく告白している。

私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
ローマ人への手紙 8:24 新改訳2017

規範を逸脱する者(他者と自分を含め)へのネガティブな感情。その感情は、協力的な社会を形成する上で重要な役割を果たしているよね。だって、それがなかったら、北斗の拳みたいなヒャッハーの世紀末ディストピアになっちゃうもん。

でも、ネガティブな感情の取扱いを間違うと、逸脱した者を抹殺して社会から排除するという結果になり、そうなると、社会は包括的でも包摂的でもなくなり、「協力的な社会」という美しい看板を掲げた恐怖のディストピアになってしまう。協力的でない人を全員引き算して作る協力的社会という矛盾って、冗談でなく世界で現在進行形の問題だよね。

うむぅ。。。規範を無視してもディストピア。固守し過ぎてもディストピア。人類歴史ってこの二極間をずっと揺れ動いているのかもしれない。

しかし、興味深いことに、聖書はネガティブな感情の矛先を人間の外部に向けるように勧めている。

どこに向けて? 悪魔に向けて、だ。

今日の聖書の言葉。

だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。
ヤコブの手紙 4:7 新共同訳

人間の外部に「悪魔」という存在を設定し、悪魔に「人間を誘惑して規範から逸脱させる者」という役目を割り振る。そうすることによって、自分にも他者にも、同一の土俵上で悪魔に立ち向かう主体、というポジションが与えられることになるんだ。

その結果みちびきだされる世界観は

自分 vs 他者 (逸脱者)

という図式ではなく、あるいは

自分 vs 自分 (逸脱者)

という図式でもなく

人類 (自分+他者) vs 悪魔 (誘惑者)

という図式になるんだ。

こうして、自分も他者も、同じ葛藤の中で必死に戦っている間柄という「連帯感」で結ばれることになり、かつ、戦いに敗れて逸脱者になってしまった者は「敵」ではなく負傷した「戦友」という認定になる。

負傷した戦友への扱いは? もちろん、前線から後方に移し、休養を与え、回復させ、ふたたび戦えるようにすること。軍事教典にある通りだ。

どうも人間って逸脱者への処罰感情に駆られてとっさに報復行動に出がちだけど、あわてないで、落ち着いて、なぜ逸脱が起きるのかを聖書の世界観の仕組みに沿って考えてみなさい、と言われている気がする。

敵認定するんじゃなく、負傷した戦友として扱う。。。

でもこれがなかなか難しいんだ。

ネガティブ感情の矛先となる対象を他者から分離し外部化して処理するツールとしての「悪魔」だけど、残念ながら他者を簡単に敵認定するレッテルとして便利に使われている現実があって、これは明らかな誤用だと思うんだけどね。。。

註)
*  Cf. ローマ 2:1,17-22

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