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聖書を読んで、途方もない訓練を受ける、っていう話です。

自分を見て、あれも足りない、これも足りない、と不満をおぼえ。。。

他人を見て、あれも足りない、これも足りない、と不満をおぼえ。。。

そうやってると、不満と言うのは、いつまでもなくなることがないよね。

そんなふうに不満があるのは、そもそも人間が有限の存在で、有限のリゾースしか持ってないから、っていうのが理由だろうけど。。。

じゃあ、永遠で無限の存在である「神」には、不満は無いんだろうか?

今日の聖書の言葉。

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。
テモテへの手紙二 3:16-17 新共同訳

聖書には「義」っていう概念が頻出するんだけど、これって、神のココロが完全に満足した状態、っていうふうに自分は解釈している(諸説あります)

神のココロが完全に満足した状態が「義」であるならば、それは、より具体的には、どういう状態なんだろう?

自分はクリスチャンなので、神には父と子と聖霊という三つのパースンがある、ってことを信じている。どうしてそう言えるのか、という説明については長くなるので略。。。

なので、神のココロが完全に満足している、とは、父と子と聖霊という三者間で、あらゆることについて完全に合意して満足している状態、っていうふうに言い換えられるんじゃないかと思う。

これって、自分の感覚的には相当にハードルが高いことだよなあ、って感じる。

だってさ、ふつうに生きていて、自分を含めた三者があらゆることについて完全に合意に達するなんて、まず経験しないじゃん?

もちろん、少ないイシューなら三者が合意することはあるかもしれない。でもそれだって、永続するのはマレだよね。

だから、父と子と聖霊という三つのパースンが完全に満足しているという、もうただそれだけの理由でマジ神なんじゃないか、と思ってしまう。

三者の完全な満足を絵にしたのが、このイコンだ。

アンドレイ・ルブリョフ「至聖三者」15世紀

おもしろいなあと思うのは、神は神の義をわれわれに転嫁してくれる、って新約聖書が言ってることなんだよね。

神の「義」がどういうメカニズムで人間に転嫁されるのか、っていうのが、まさにイエスの十字架と復活なわけだけど、そこは長くなるからすっ飛ばして。。。

結果だけ見ると、現状、父と子と聖霊はこの自分を「義」としてくれている、っていうことになる。

つまり、神はこの自分に完全に満足してくれている、っていうことになるんだ!!!

これってビックリマークが3つでも足りないよね。もっかいやろう。

つまり、神はこの自分に完全に満足してくれている、っていうことになるんだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!以下略。。。

そんなの絶対にあり得ないんじゃないの? って思ってしまうんだけど、神サイドではそういうことになっている。証拠聖句がこれ。

わたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。
テトスへの手紙 3:7 新共同訳

自分について父と子と聖霊が完全合意で満足してくれている、っていうのは、神がそう言ってるから、そのまま受け取るとして。。。

問題はその先だ。

神は自分に満足しているとしても、自分は神に満足しているだろうか?

あるいは、自分は神に満足しているとしても、自分は自分に満足しているだろうか?

さらに、自分は自分に満足しているとしても、自分は他人に満足しているだろうか?

もっと行くと、自分は他人に満足しているとしても、他人は自分に満足しているだろうか?

そういうことを考え始めると「義」っていうのは、まだまだ世界でというか宇宙で展開し拡充し増殖して行く必要があるんじゃないのかなー、って思ってしまう。

いったい、父と子と聖霊が完全合意で満足している状態が、どういうふうに自分と他人と世界に展開して行くんだろう。

はっきり言って、それはよくわからない。。。

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ
人を教え、戒め、誤りを正し
義に導く訓練をするうえに有益です
こうして、神に仕える人は
どのような善い業をも行うことができるように
十分に整えられるのです

なので、今日もひたすら聖書を読むしかないよなー、と思う。聖書を読んで「義」に導く訓練を受けるしかない。

その訓練というのは。。。

自分がいかに神に満足し。。。自分自身に満足し。。。他人に満足し。。。そして、他人が自分に満足してもらえるようになるか。。。っていう訓練。

こりゃあ、ほんと、途方もない訓練だ。

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