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教会の一致と分裂について考えてみた。。。

新約聖書はキリストの教会のことを「キリストのからだ」と表現している。

これは、メタファー(たとえ)として言っている、という説と、文字通り復活のキリストのからだの実体が教会だ、という説があるんだけど。。。

どっちなんだろうね。。。

イエスは十字架にかかり、死んだ。

その時、神は全人類をキリストのうちに含め入れて、キリストと共に全人類も死んだ、と神の側ではみなすことにした。

えーっ、そんなの無理あるじゃん? オレ、死んでないし? と言う向きもあると思うけど。。。まあ、神が決めたことなので、神が決めたとおりになる。なぜなら。。。神だから。。。

それだけじゃない。

イエスは三日目に復活した。

その時、神は全人類をキリストのうちに含め入れて、キリストと共に全人類も復活したもの、と神の側ではみなすことにした。

ひえーっ、いよいよ無理あるんじゃん? だって、オレ、復活してないし? という意見が多数と思うんだけど。。。やっぱり、これも神が決めたことなので、そのとおりになるしかない。。。だって、神だから。。。

こういう常識サイドから見るとそうとう無理系な説明の上に立脚して、人類の集合体は「キリストのからだ」だ、と新約聖書は表現しているんだ。

しかも、それがどうも単なるメタファーではない、ってこと。。。

それについては、こういう説明の仕方になる。

復活したキリストは40日後にオリーブ山から天にのぼり、父なる神の右の座で栄光を受けた。

で、栄光の証しとして、キリストは聖霊を人類に注いだ。

その聖霊が注がれた出来事が、使徒言行録2章に描かれたペンテコステなわけなんだけど。。。

かくして、キリストの霊=神の霊=聖霊は、人類のうちに宿るようになり、だから、いまや人間というのはキリストの霊によって内住されているところの身体、ということになる。

こうして、個々人の身体は、それがそのまま「キリストのからだ」ということになるんだ。

だって、キリストの霊を持ち運ぶ身体が、キリストのからだ、だからねー。

そっからさらに推論すると。。。

AさんとBさんとCさんがいて、それぞれにキリストの霊である聖霊が内住しているわけだから、Aさんの身体も、Bさんの身体も、Cさんの身体も「キリストのからだ」だ、という理屈になる。

なので、三人まとめて集合体としての「キリストのからだ」ということになるワケ。

そして、人類というのは、それこそ何十億人といるわけだから。。。さらにこの先、もっと生まれて来るわけだし。。。

上記の論理で言えば、過去の人類・現在の人類、未来の人類を全部あわせた総計としての集合体が「キリストのからだ」ということになるんだ。

今日の聖書の言葉。

それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
コリントの信徒への手紙一 12:25 新共同訳

そういう集合体としての人類が「キリストのからだ」であって、その目に見えるアイコンが、団体や結社としてのキリスト教会であるわけなんだけど。。。

現状、それは、大人の諸事情で、分裂している。。。

本来キリストのからだに分裂は「ない」はず、なんだけどねー。

歴史の経緯のなかで、どうして分裂してしまったのか、というのは、ささいな理由によるものから、相当深刻な(そりゃ仕方ないよな、と思えるような)理由によるものまで、多岐にわたる。。。

なので、その結果としての分裂も、詳細かつ多岐にわたっている。

ざっと、どういう分裂があるかというと。。。

● クリスマスは12月25日か、それとも、1月7日なのか説。

● 聖餐式のパンはイースト菌を入れてよいか、それとも、入れてはダメか説。

● 礼拝の場所に立体像を置いてよいか、それとも、二次元像しか許されないか説。

● 洗礼は全身水につかるべきか、それとも、水滴だけでよいか説。

● 聖職者を任命する按手(あんしゅ)は、使徒以来途切れず連綿と続いているべきか、それとも、途中で途切れててもしょうがないか説。

● 聖餐式のパンは、ほんとうにキリストのからだに変化するのか、それとも、単なる象徴なのか説。

● 洗礼は、乳児や幼児に授けていいのか、それとも、成人だけに授けるべきなのか説。

● 死んだら煉獄に行き、そこで浄化されてから天国に行くのか、それとも、死んだらまっすぐ天国に行くのか説。

● 死人を祈念して贖宥状を買うと、霊魂は煉獄を脱出して天国に行けるのか、それとも、贖宥状の購入と救いは何も関係がないのか説。

● 教会は、地上におけるキリストの代理人であるペトロの後継者が治めるべきか、それとも、それぞれの教会が自治してよいのか説。

● 聖化を追求するには俗世を離れて修道生活をしなければダメなのか、それとも、俗世に身を置きながら信仰だけで聖化されるのか説。

● とりなしの祈りをマリアや聖人に頼んでよいのか、それとも、とりなしの祈りを頼めるのは生きている信者だけなのか説。

● 神が救いに定めた人間は救いを拒否できないのか、それとも、自由意志で拒否できるのか説。

● 礼拝に楽器を使ってよいのか、それとも、楽器はダメで人間の肉声だけで歌うべきか説。

● 聖化の恩恵を受けた人間からは罪が根絶されるのか、それとも、罪は無くならないで発現が抑えられるだけなのか説。

● キリストが再臨してから千年王国が実現するのか、それとも、千年王国が実現して千年後にキリストが再臨するのか説。

● キリストは陰府(よみ)に降下して福音を宣教したので、死後の世界にも救われる機会があるのか、それとも、死後の救いはないのか説。

● 異言(いげん)のような、聖霊があたえる超自然的な賜物は、今の時代もあるのか、それとも、今はもうないのか説。

● 礼拝で説教できるのは男性だけか、それとも、女性も説教してよいのか説。

● 教会は異性間の結婚だけを祝福するのか、それとも、同性間の結婚も祝福してよいのか説。

まあ、これだけ争点があって。。。

しかも、これでも、いろいろある争点のほんの一部なわけだけど。。。

どの争点についても、みんな真剣。。。神さまをしょって一歩も譲らず自説を主張した日にゃあ、そりゃ、分裂するしかないわけで。。。

これらの争点が、どうでもよいもの、とは、誰もけっして思っていない。

なので、分裂の状態が、一朝一夕で解決するとは、とても考えられない。

でも、にもかかわらず、自分は、思ってる。

それは、見た目の上の団体や結社が分裂している、というだけであって、実体であるキリストが裂かれているわけではないんじゃないか、ってこと。

だって、復活のキリストは、恐れの壁を自由自在に通り抜けて、わたしたちの真ん中に入って来てくれるわけだから。

人間が作ったどんな強力な壁も、キリストの往来を邪魔することはできない、はず、なんだ。

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。
ヨハネによる福音書 20:19-29 新共同訳

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