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自分の人生は自分のもの、という考え方がもたらす局面の行き詰まりを打開する。

神は万人を救いに招いている。すべてのひとに対する招きという意味で、これを「一般召命」と神学的には言うんだけれど、でも、招かれていても、招かれている自覚を持てないことがある。ところが、なんかの拍子で、と言うよりは聖霊の働きによって、あっ! 自分は招かれているんだ、もう救いに入れられているんだ、ってことが、わかる瞬間が来る。

この、わかってしまった状態になることを「有効召命」と言うんだ。

今日の聖書の言葉。

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
ガラテヤの信徒への手紙 5:13 新共同訳

これが「わかる」と、自分の人生は自分のもの、という考え方がもたらす局面の行き詰まりが打開されて、あたらしい世界が開かれてくる。で、以下は、です・ます調にシフトチェンジする。

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ウィズコロナ時代の信仰⑧ 

ヨハネによる福音書 17:1-10

1節a イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。父よ、時が来ました。 

人生の重大な局面で、天を仰ぐときがあります。たとえば、自分の無力を感じる時です。イエスは、いよいよ十字架にかかろうとする前の晩、天を仰いで祈られました。その祈りがヨハネによる福音書第17章におさめられています。イエスは神のひとり子ですから、全能の神としての力を持っています。しかし、イエスは全能の力を捨て去って、無力な者となってくださいました。力を捨て、十字架にかかり、死んで、復活することが、父なる神の御心であったからです。なぜイエスは十字架を選んでくださったのでしょうか? それは、わたしたちをきわみまで愛してくださっているからです。イエスは無力な存在となって、天を仰ぎ、父なる神に祈りをささげました。

ひるがえって、わたしたちはどうでしょう? わたしたちも自分の無力さを感じ、天を仰ぎ、祈ることがあるでしょう。その時、「ああ、これはわたしの十字架だ」「だから進んでそれを選び取ろう」と思うことができたなら、わたしたちはイエスの弟子として生きていることになります。それは、どんなに幸いなことでしょう。なぜなら、すべての十字架は復活に通じるからです。復活を信じる信仰こそ、コロナ時代に求められている信仰です。 

1節b あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。 

栄光を受ける時があり、艱難に遭う時があります。順序としては、まず、艱難に遭う時が来て、次に、栄光を受ける時が来ます。イエスはいよいよ明日、十字架にかかろうとしていました。まさに艱難に遭おうとしていました。ですからイエスは「父よ、これからわたしは艱難を受けます」と祈ることもできたはずでした。しかし、イエスは「艱難を受ける」とは祈らずに、あえて「栄光を受ける」と祈ったのでした。イエスは、父なる神を深く信頼していたので、艱難の次に必ず栄光がある、十字架の次に必ず復活があると信じて、こう言ったのです。「栄光をあたえてください!」 十字架に着く覚悟を決めたイエスは、もう十字架自体を見ていません。イエスの目はすでに十字架の向こうにある復活の栄光を見ているのです。

ひるがえって、わたしたちはどうでしょう? わたしたちも艱難の時であるこのコロナ時代の向こうに、栄光の時代が来ることを、信仰によって見ることができるでしょうか? そのような信仰姿勢が、コロナ時代には求められていると思います。 

2節 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。  

父なる神は、万物の創造主として、万物を所有し、万物を支配しておられます。父なる神の手の中に全人類は置かれています。いま、父なる神は、ご自分の手にある人類を完全にイエスにおゆだねになりました。その結果、人類はイエスのものとなりました。わたしたちはいま、イエスのものであるのです。その上で、イエスは全人類の身代わりとなって十字架上で命を注ぎつくし、永遠の命をあたえてくださいました。

ひるがえって、わたしたちはどうでしょう? わたしたちは自分のアイデンティティーをどこに置いているでしょうか? 自分は自分のものだ、とだけ思っているなら、それは平凡な人生です。自分はイエスのものだ、と思っているなら、それは永遠の命にあずかる人生です。自分はイエスのものだ、と思っているなら、わたしたちはイエスが十字架で注ぎだしてくださった命のすべてにあずかることができるのです。 

3節 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。  

自分に永遠の命があたえられていることを、どのように確認したらよいでしょうか? イエスは言われました。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」 自分が神を信じ、神が遣わしたイエスを信じているなら、そのように信じていること自体が永遠の命の証しであり、保証であるのです。永遠の命の保証とは、このように単純なものです。わたしは神を信じ、イエスを信じている。アーメン。この単純な信仰自体が、永遠の命を持っていることの決定的なしるしです。

ひるがえって、わたしたちはどうでしょう? わたしは神を信じ、イエスを信じている、アーメンでしょうか? もしアーメンであるならば、わたしたちはこの不確実な時代、不安定な時代にあって、ゆるぎない信仰の事実を確認することができるのです。それは、わたしは、いま・もう・すでに永遠の命にあずかっている、という事実です。 

6節 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。  

ここにもまた、わたしたちが何者であるかというアイデンティティーが示されています。父なる神は、世からわたしたちを選び出し、イエスに与えてくださいました。そのわたしたちに対して、イエスは、ご自分の名、イエスという名を現わしてくださいました。ですので、わたしたちはみんな、イエスの名を知っているのです。ここには、信仰の順序が示されています。ふつうは、わたしがイエスの名を知る、その結果、イエスがわたしを救ってくれる、という順番で考えます。これが普通の順番です。しかし、信仰の世界ではそうではありません。逆になります。父なる神がわたしたちを選んでイエスにあたえてくださった、わたしたちはイエスのものとなり、永遠の命を与えられ、救われた、その結果として、わたしたちはイエスの名を知るのです。イエスの名を知ったから救われたというのではない。救われたから、イエスの名を知るのです。これが信仰の順番です。

ひるがえって、わたしたちはどうでしょう? わたしたちはすでにイエスの名を知っています。イエスの名を呼び求めています。イエスの名によって毎日祈っています。それはつまり、わたしたちが神によって選び出され、救われていることの証拠であり、証しであるのです。 

10節a わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。 

ここに、わたしたちのアイデンティティーがふたたび示されています。人生のなかで、自分は何者か、何のために生きているのか、悩むことがあります。しかし、明快な答えが示されています。わたしはイエスのもの、イエスのものは父なる神のもの、父なる神のものはイエスのもの。これがわたしたちのアイデンティティーであるのです。わたしは、イエスによって所有されている存在であり、父なる神によって所有されている存在であり、だから、神もイエスもわたしを大事にしてくださる、永遠に大切にしてくださる。神がわたしたちを愛してくださる、とは、神がわたしたちを大切にしてくださる、ということです。わたしは父なる神のもの=わたしはイエスのもの=だから、神もイエスもわたしを大切にしてくれる。

ひるがえって、わたしたちはどうでしょう? 自分自身を大切にしているでしょうか? なげやりになって、自暴自棄になって、人生を捨てようとしていないでしょうか? わたしは神によって大切にされている存在だ、ということを確信することが、コロナ時代の信仰に求められていると思います。

10節b わたしは彼らによって栄光を受けました。 

ここには、驚くべき宣言が記されています。栄光についての宣言です。ふつう栄光と言ったら、神がくださるものです。神がイエスに栄光をお与えになる。これがふつうです。ところがイエスは、イエスを信じるわたしたちによって、イエスが栄光を受ける、と言うのです。イエスがわたしたちに栄光をあたえる、というのではなく、逆に、わたしたちがイエスに栄光をあたえる、というのです。弱く、もろく、愚かで、罪深い存在であるわたしたち。そういうわたしたちが、イエスによって救われ、イエスのものとなり、その結果、わたしたちがイエスを知り、イエスの名を呼び、イエスの名によって祈るようになる。そういう、わたしたちの単純な信仰の歩みによって、イエスが栄光を受けるのです。みなさん、これまで、お考えになったことがあるでしょうか? わたしがこの一週間、毎日イエスの名によって祈るなら、わたしによってイエスが栄光を受けることになる。イエスがわたしから栄光を受ける。そして、イエスはよろこびに光り輝くのです。このコロナ時代にあらゆることがキャンセルされて、ああ、つまらない、自分には何もすることがない、と失望してしまいがちです。しかし、わたしたちには胸躍るような人生が開かれているのです。それは、わたしが生きることによって、イエスがわたしから栄光を受ける、という人生です。それは、むずかしいことではありません。イエスの名を呼び、イエスの名によって祈り、イエスを信じて生きる。それだけで、イエスがわたしたちから栄光を受けるのです。

ひるがえって、わたしたちはどうでしょう? 今日からはじまる新しい一週間を何のために生きるのでしょうか? ぜひ、イエスに栄光をあたえるために生きる一週間でありたいと思います。 

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