あたりまえではないことを、信じて、あたりまえの日常を生きる。
「イエスは神の子だ」ということ。これは、クリスチャンである自分には、あまりにも、あたりまえのことだ。。。だけど、よく考えてみると、これは、決して、あたりまえでは、ないよね。。。
今日の聖書の言葉。
イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。
ヨハネの手紙一 4:15 新共同訳
日本の信仰的な風土からみたら、あるひとが「神の子」である、というのは、かんたんにあり得ることかもしれない。だって、神と神が婚姻して、たくさんの神々が生まれ、その数じつに800万におよぶ、というストーリーを、あたりまえとして生活しているわけだから。
これとは対照的なのがイスラムだ。そこでは、あらゆるものを超越した神が、絶対者として存在している。そのロジックは、もし神のほかに神がいたら、その神とこの神は、おたがいに相対的な関係に置かれてしまうので、どちらも絶対者ではなくなってしまう、つまり「神」ではなくなっちゃう。これを回避するには、神は永遠の単独者である、としなければならない。当然、神の子なんて、ありえない、ということになる。
この点、ユニークなのが、ユダヤ教だ。あらゆるものを超越した絶対者としての神、という点は、イスラムと同じ。だけど、第二神殿時代のユダヤ教(後期ユダヤ教)では、神は、あまりにも絶対的過ぎるので、神がじかに世界に触れたら、世界は壊れてしまう、と考えるようになったんだ。この、世界の滅亡への恐怖心というのは、バビロン捕囚の凄惨な体験に深く根差してるんじゃないかと思う。
じゃあ、神はどうやって世界に関与するのか? そこで立てられたのが、神の言葉(メムラ)、神の輝き(イェカラ)、神の臨在(シェキナー)だ。つまり、神から出た「神の言葉」が世界に語りかけ、神から出た「神の輝き」が世界を照らし、神から出た「神の臨在」が世界の中に住む。。。神と世界のあいだを媒介する神的存在を配置することで、世界の滅亡を回避しようとしたんだ。
神と世界のあいだを媒介する神的存在、という考え方は、アラム語訳旧約聖書である『タルグム』に、よく表れている。そこでは、世界に対する神の関与は、ことごとく、神の言葉(メムラ)、神の輝き(イェカラ)、神の臨在(シェキナー)の活動として描かれているんだ *。
とっても興味深いことだけど、第二神殿時代のユダヤ教では、神から出た神の言葉(メムラ)は、神である。神から出た神の輝き(イェカラ)は、神である。神から出た神の臨在(シェキナー)は、神である。神から出た神の霊(カドーシュ・ルーアハ)は、神である。しかも、神は複数ではなく、ただ唯一の神である、と考えられていたんだ。
そして、この第二神殿時代のユダヤ教に、新約聖書は自然に接続している。どういうことかというと、世界の滅亡を回避するために、神から世界に送られてきた存在がイエス・キリストで、イエスは、神から出た神、光から出た光、まことの神から生まれたまことの神、父なる神から生まれた独り子なる神である、とするんだ。そして、神から出た聖霊(あのカドーシュ・ルーアハ)も神である、と。しかも、神は複数ではなく、ただ唯一の神である、とする。
そうだとすると、いわゆる三位一体の考え方は、ギリシャのロジックではなく、ヘブライのロジックだった、ということになるよね。
新約聖書のなかのヘブライ的要素の珠玉みたいな「ヘブライ人への手紙」は、冒頭一番、こう歌いあげている。
神は、御子を万物の相続者と定め、また、御子を通して世界を造られました。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の現われであって、万物をその力ある言葉によって支えておられます。
ヘブライ1:2b-3 聖書協会共同訳
「イエスは神の子だ」と信じ、それを口にだして言う、というのは、とても勇気がいることだけど、しかし、そうすることによって、自分が世界のなかで生きて行くためのストーリーが、出来(しゅったい)するんだ。
どういうストーリーかというと、神は、神の言葉で、わたしに届いてくれた。神は、神の輝きで、わたしの闇を照らしてくれた。神は、神の臨在で、わたしといつも一緒にいてくれる。神は、神の聖霊で、わたしのうちに宿ってくれる。だから、わたしは今日も、世界の滅亡を恐れないで、生きて行くことができる。。。というストーリーだ。
註)
* G.H.Box, "The Idea of Intermediation in Jewish Theology; A Note on Memra and Shekinah,” The Jewish Quarterly Review, vol.23, no.2, Oct.1932, pp.103-119.
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