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グローリー、栄光あれ!っていう話です。

スピリチュアルな感覚のするどい人には、他人のオーラが見える、って言うけど、どうなんだろうね。。。

もし自分にもオーラがあるとしたら、いったい、どんな色をしているんだろう。赤? 緑? 黄? それとも紫?

自分は正教会のイコンが好きで、レプリカをいくつか持っているんだけれど、それには後光っていうやつが描かれている。

後光だと仏教用語か。美術用語としては「光輪」と呼ぶらしい。

光輪(英語:halo、古代ギリシア語 ἅλως)は、美術において、人の頭部を取り巻く光線、光の円または円盤。ニンブス、アウレオラ、グローリーとしても知られる。多くの宗教的図像で聖人や神聖な人物を表すために使用されており、様々な時代の支配者や英雄の図像にも使用されている。古代ギリシア、古代ローマ、キリスト教、ヒンドゥー教、仏教、イスラム教などの宗教美術では、神聖な人物は、頭の周りまたは身体全体に円形の光輪が描かれることがある。東洋美術では炎の形で描かれることもある。頭だけでなく全身を取り巻くものは、しばしばマンドルラと呼ばれる。光輪は、ほぼ全ての色または色の組み合わせで描かれるが、ほとんどの場合、光を表すとき金色、黄色、白、炎を表すとき赤で描かれる(by Wikipedia)

光輪。マンガの表現だと「天使の輪っか」だね。こうして見るといろんな呼び方があるんだねー。グローリーとも言うんだ。

なんか、かっこいいね。グローリー!!!

今日の聖書の言葉。

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
ローマの信徒への手紙 3:23-24 新共同訳

自分の人生がグローリーそのものだったら、どんなにかいいだろう。

栄光に輝く人生。アタマだけでなくカラダもココロもタマシイも、すべて光り輝くオーラを放つ生き方を、ぜひしたいものだよね。

でも。。。まあ。。。現実はと言うと。。。以下、略。。。

敵に攻め込まれ、領土を奪われ、仲間が次々に倒れ、挽回の見込みは立たず、援軍は到着せず、弾薬も食料も底をつき、最後の防衛線が破られ。。。っていう状況になってしまったら、どこにグローリーがあるだろう。

いや、もちろん、それでも「グローリー!」と叫んで、突撃することは可能だろうけど。。。

そういう状況は世界史だけでなく、ひとりひとりの人生にも起き得る状況だよね。

自分も刀折れ矢尽きるという状態に追い込まれたことが過去にある。

その時感じたことは、ああ、栄光は去った、という徹底的な無力感だった。そして、映画『ロードオブザリング』のヘルム峡谷の戦いでセオデン王が放った「どうしてこうなってしまったのか」という言葉を自分も繰り返すしかなかった。

だから、もしグローリーというものが存在するとしたら、それは、自分の内部には無い、ってことしか言えない。

自分はそれを持っていないし、自力で作り出すこともできない。

グローリーは自分の外部から他者によって与えられるしかないものなんだ。そのことを身をもって知った。

そして、そのあと、グローリーがほんとうに与えられる経験をすることができた。それは、自分の外部から。。。他者から。。。つまりイエスから、っていうことになるんだけど。。。

イエスにおける「神」は、全人類の罪障を身ひとつに引き受けて十字架にかかり、贖罪の死を遂げ、復活することによって、完全な罪の赦しと永遠の命をわれわれに与えてくれた。

罪の赦し✕永遠の命=グローリーということなんじゃないかと自分は思う(諸説あります)

それがグローリーのクオリティだとしたら、人間がどう逆立ちしたって絶対に自力では作り出せないものだよね。

一敗地いっぱいちにまみれた(二度と立ち上がれないほど徹底的に打ち負かされた)自分は、つっぷしている泥のなかからイエスを見上げた。イエスに助けを求めた。その瞬間、グローリーが与えられた。

なんでそんなことがわかるか、と言うと、それは、わかるからわかるんだ、としか言えない主観的な世界ではあるんだけれど。。。

いま、自分はこう考えている。どんなに絶望的な状況でも、あきらめる必要はないんだ。だって、グローリーは外部から・他者から・イエスから・無償で・一方的に・超自然的に・即座に与えられるものだから。

だから、今日も叫びたいと思う。グローリー! 栄光あれ! 自分・そして・すべての敗者に!

註)
*  画像:キーウ大公妃聖オリガのイコン

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