こんな夜更けにラーメンかよ

※一部の表現に、やや過激と思われる表現がありますが、特定の領域、施設、人物を侮蔑する意図はありません。また、特定の施設の運営について全面的に賛同する、または宣伝する意図はありません。

深夜のラーメン提供

介護業界では、ある高齢者支援の事業所の夜間の利用者対応を巡って大きな議論になっています。詳しい状況については以下のリンクをお読み下さい。

ある時、これまで病院でペースト食対応だった利用者さん(近藤さん)が、移行先の事業所(当該事業所:ぐるんとびー)で深夜にラーメンを希望されました。いわゆる「一般的な」夜間の対応としては就床を促すのがセオリーですが、こちらの事業所では希望通りにラーメンを利用者に提供しました。それに対し

・こんな深夜に提供して誤嚥があったらどうするのか ・希望を聞くのはよいことであるが、もっと食形態に工夫はできないのか。これではあまりにも危ない。 ・利用者がわがままになったらどうする気なのか ・こんな対応が話題になっては、「あなたの施設でもこういうことをやってよ」というような過剰な要求が出て施設内が乱れかねない。迷惑だ。

といったような批判が寄せられました。

一方で

・うちの親もこういった施設に入れてあげたい ・「病気だから」「危ないから」といった死ぬまで様々なことを我慢させて、何の満足感もないまま死なせることが「支援」なのか。私の家族がまさにそうだった。  ・安全性ばかりが優先されていて、こうした利用者の希望やQOLがないがしろにされている

といったような意見も寄せられました。

この施設の施設長である菅原健介さんから、Twitterなどを通して意図や背景(近藤さんは元々食事に興味を示しており、食べたい食事の希望を関係者に伝えたりしていた。そこで多職種連携の下、ペースト食から徐々に食形態を上げていくよう支援を行っており、その過程で生じたことだった、といった形で)説明されましたが、Twitterではこの施設の対応について広く議論されています。

ざっくり見たところ、私としては「安全性」や「わがまま」VS「QOL」というようなで対立構造の議論になっていると感じます。

「QOL」という言葉は、福祉関係者なら必ず聞くであろう言葉です。しかし、現場関係者の中でここまで広くQOLについて議論されたことはなかったと思います。

そこで、「QOL」とその周辺について一度考えてみたいと思います。

1.「QOL」と「安全性」

まず、コトバンクでは

QOLは、物理的な豊かさやサービスの量、個々の身辺自立だけでなく、精神面を含めた生活全体の豊かさと自己実現を含めた概念。1960年代までの医学的リハビリテーションや福祉では、ADLが意味する、歩行、摂食、衣服の着脱、洗面、入浴、排便といった日常生活における身辺動作の回復や介助という点のみが目指されてきた。しかし、70年代のターミナルケアや障害者の自立生活運動などの領域で、ADLのみに注目するのではなく、身辺自立ができなくても他者の介助を利用して当事者の望む生活の質を確保することに目が向けられるようになった。高齢者福祉においても、生きがいや幸福感といったQOL向上の援助が求められている。

とQOLは説明されています。

身辺自立中心の支援から、当事者の生きがいや自己実現に向けた支援へシフトしていく中でQOLという概念が育ってきたということがわかるかと思います。

日本介護福祉士会の倫理綱領にも

1.利用者本位、自立支援
介護福祉士はすべての人々の基本的人権を擁護し、一人ひとりの住民が心豊かな暮らしと老後が送れるよう利用者本位の立場から自己決定を最大限尊重し、自立に向けた介護福祉サービスを提供していきます。

という文があり、自己決定の尊重が謳われています。

近藤さんが記事内で言っていた「味噌バターラーメンを食べたい」という言葉も、当事者の自己決定、自己実現の一つであると思います。

ここで批判の元になっている、スタッフが「深夜」に提供したという点についてですがドルゴフ(Dolgoff,R.)の倫理的ジレンマが発生したときの倫理的判断過程と倫理的指針選別順位を基に考えてみたいと思います。(下記HP:2018 はじめての社会福祉・精神保健福祉より引用します)

今回の場合本人の生命VS本人の自己決定のジレンマであると考えています。順位では、生命保護が最優先とされています。スタッフが少なく、誤嚥のリスクもある中提供するというのは少なくともセオリーからは外れています。取材した記者である岩永さんが考えるように、「もう深夜ですし、ラーメンは食べることができないか今度検討してみますから、今は我慢してくださいね」と伝えるのがセオリーかなと思います。私自身、似たような希望が利用者さんからあった場合、そのような対応をしています。

とはいえ、この価値基準が常に絶対というわけではなく。以下の倫理的判断の過程の中にある判断基準の一つとされています。

①倫理的課題を把握する。②倫理的判断で影響を受ける個人、集団、組織を把握する。③全ての選択肢を考え、関連するすべての対象に対するプラスとマイナスの影響を考える。④各選択肢に対する賛成と反対の理由を検討する。⑤同僚や専門家のコンサルテーションを得る。⑥判断を行い、その過程を記録に残す。⑦倫理的判断を実践、モニタリング、評価し、記録に残す。以上のように整理できる。

私としては、「選別順位といった支援のセオリーを外れても、当事者の意思決定の過程、具体的な支援過程について組織内外の関連職種間で確認が取れており、記録として残されるのであれば、それは支援として成り立つのではないか」と考えています。(もちろん介護保険法のような法的な縛りの枠内という前提がありますが)

つまり、常に安全がQOL(ないしは当事者の希望)に勝るというわけではなく、(当事者の希望があることを前提に)当事者の支援過程を記録として残し、組織内外のコンセンサスが取れるのであればQOLが安全に勝る支援もありうる、ということです

※安全を「捨てる」支援ではありません。記事の中で栄養士のシオジュンさんが指摘されていたように、当事者の希望によってリスクが生じていても可能な限りの安全への配慮をすべきだと思います

2.「QOL」と「わがまま」

批判の中にあった「当事者のわがままを強くする」ということについて考えてみたいと思います。

まず「わがまま」ということについてですが、近藤さんの行為についてぐるんとびー側は「本人の希望」、批判されている方は「わがまま」と捉えています。

このことから「わがまま」という捉え方は非常に恣意的なものであると考えられます。言い換えれば、「当事者の行為を『わがまま』とするかは支援者の裁量や都合次第」ということです。

一支援員である私から言わせて頂きますと、はっきり言って、一つの集団から誰かを個別に取り出して特別な対応を取るということは非常に手間がかかりますし、他の利用者や保護者の方の目もあります。ただでさえ介助や事務業務で忙しいのに・・・と思うこともあります。手間も神経も使わず、一律対応できるなら、それが一番助かります。当事者の希望を全てわがままとして切り捨てられるなら、それが一番手間がはぶけます。

が、この支援の行きつく先が「福祉」なのかは非常に疑問です。行きつく先は「善意でできた(刑期のない)刑務所」かもしれません。そこに将来自分や自分の親を入りたいと思うでしょうか(自分や自分の親が死ぬほど嫌いならそうかもしれませんが)。

「当事者の希望を全て「わがまま」とすることもできなくはないが、その行きつく先に人間的な生活が待っているかはかなりの疑問。しかし、あまりに希望を聞きすぎるとただでさえ人数不足の現場がパンクしてしまう」

そんなダブルバインドの中で支援を行っている介護職の方も多いのではないかと思います。

もしかすると

QOLだの意思決定だの小難しくて手間がかかることばっかり上は指示しやがって。現場を知らない役人や上役ばっかりカッコつけて下に指示ばっかり出して。最近は福祉資格をもった意識高い系(笑)までかっこつけてやがる。ボケたじじばばはベッドや車いすに縛り付けて過ごさせてやるのが手間もはぶけるし安全でこれが一番だよ!

くらいが一般的な支援者の「QOL」の認識かもしれません(卑屈過ぎるかもしれませんが)

※過激な表現ではありますが、この表現に関係者に対する侮蔑の意図はありません

Twitterや他施設の支援員の話を聞く限り、このような感じで支援者のQOLの認識には様々なものがあると感じます。とはいえ、この認識の背景には支援組織内の雰囲気や教育体制、人員や資金などの余裕、等の影響もありますし、一概に支援者の認識に対して非難することはできないと思います。

「QOL」VS「わがまま」という対抗図の根本には、こうした支援環境の違いがあるのではないかと思います。

3.今後のQOLの在り方

ここまで「QOL」と他の価値観との競合、「QOL」そのもの認識の違い、といったものが議論の中心にあると考え、その内容について自分なりにまとめました。

この議論について、私の大学院時代の恩師である立命館大学の望月昭先生の論文を引用してみたいと思います。

行動的 QOL: 「行動的健康」へのプロアクティブな援助(望月,2001)

望月先生はB.Fスキナーの行動分析学を基に「行動的QOL」という考え方を提唱されました。望月(2001)では当時の「QOL」について住環境などの設備設定VS個人の主観的満足度という構造に大別しており、前者は目に見えるが個人の好みなどを図れない。後者は個人の好みを図れるが当事者が支援者にお世話になっている立場である以上、素直に好みを伝えることがなかなか難しい(当事者がお世辞をいってしまう)、といった点を指摘しています。こういった背景から、互いの欠点を補い合える第三の尺度として「行動的QOL」が提唱されました。目に見えて数えられる当事者の「行動」を計測の主軸とすれば現段階の当事者のQOLのレベルを具体的にでき、言語のように「お世辞」も使われにくい・・・という点です。

行動的QOL

更に、望月(2001)では行動的QOLを3つのレベルに大別しています。

レベル1が、選択不可だが当事者が「正の強化」を得られる(行動の結果として満足感を得られる行動の保障

レベル2が選択可能で当事者が「正の強化」を得られる行動の保障

レベル3が選択可能かつ当事者が選択肢外のものを要求できる行動の保障

レベル

とりあえず

上記の内容から「たまには利用者さんに何か楽しいことをさせてあげたり、美味しいもの食べさせてあげたい」と支援者が思った時いつでもスタートできるものとなっています。レベルを上げることよりも「とりあえず」支援を始められることを優先した考え方となっています。

望月(2001)の後半部分では、個室での施錠対応を行わざるを得ないほど強い課題行為を示していた重度知的障害者に対して行動的QOLに基づく支援を行い、課題行為の低減や解錠・外出行動の増加に成功したことが報告されています。

「行動的QOL」は課題行為が強く解決が難しい利用者さんに対して「このまま手をこまねいているだけでは支援者のストレスがたまりっぱなしだし、何か新しい取り組みをしてみよう」と思った時のスタート地点にもなります。

まとめとして、私が考えたことは

・当事者の意思決定、組織内外の多職種連携次第で、その時優先すべき価値観が入れ替わることがある。優先すべき支援者の価値観のセオリーはあるが常に絶対ではない。 ・「QOL」に対する支援者の認識は各施設の環境によって違う可能性が高い ・QOL拡大はいつでもどこでも始められる。そしてレベルアップは強制されるものではない。 ・課題行為の解決のためのQOL拡大でもいい

ということです。

必ずしも、全国の施設がぐるんとびーのようになる必要はなく、ぐるんとびーが正解というわけではない。目の前の利用者さんをなんとかしたいと支援者が思った時、気軽にトライするきっかけとなるもの、それがQOLの在り方ではないでしょうか。

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