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「ことば」の呪縛

 「ことば」という存在は大変便利なものである。他者に自分の考えを伝えたり、何かを指し示したり。あるいは目の前に存在しえないものを想像したり。またある時は、形のないものに名前を付けたり。言語学者ソシュールの言った通り、「ことば」はある意味で「実物を制作」するものであると考えられる。そのおかげで人類はいろんなものを対象化することができて、科学を発展させてきた。中古の時代には「をかし」「うつくし」、平成には「ウザイ」など、それぞれの時代に新しいことばを生みだして、感情や心情の多様化さえ行ってきた。僕らの世界は多くのことばによって切り分けられて、そうした多様な語彙の中で人間は生活している。

 でも、そうした便利さが、僕たちをある思考に縛り付け、思考の自由度を低下させてはいないだろうか。最近使ったことば、目にしたことばを思い浮かべてみると、何だか世の中で使われている典型的な言葉だらけのような気がする。そのことばを使ってコミュニケーションしているのだから、きっと世の中では同じような会話がいつもどこかでなされているんじゃないか。そんな妄想をしてしまうほど、「ことば」には人間の思考・行動を呪縛する、そんな力がある。

 例えば、「難しい」ということば。このことばを発した途端、できない理由が脳のなかを駆け巡る。それを口に出しているうちに、さらなるできない理由が出るわ出るわ。さっきまで思いつきもしなかったできない理由までもが雪だるま式に増えていく。そんな経験はないだろうか。「できない理由を探すな」なんていうけれど、すでにその人自身が「できない」ということばに取りこまれてしまっているんじゃないだろうか。

 逆に、「簡単だ」という言葉を発すれば、できる理由が同じようにあふれ出す。でもこれも実は危険だ。できる、ということを前提としているから、結局のところ単眼的な思考にすぎない。結論ありきの思考になっていて、細やかな失敗のシグナルを受け取れなくなってしまう。

 でも、人間はことばを用いなければ思考することはできない。原理的に人間はどうしたって言葉に縛られてしまう存在なのだ。「じゃあどうすりゃいいんだよ」という声もあるだろう。その方法として、僕は次の二点を挙げたい。

 一つは「対話」だ。しかも、できる限り自分とは異質な存在とがいい(誤解のないように言っておくと、別に異業種交流を活発にせよ、ということではない。あくまで人間像、キャラクターとして、だ)。まったく違った視点から物事を見ている人間との対話によって、複眼的にモノを考えることができる。あくまでそれはある人物の主観にすぎないかもしれないが、そこで語られることばによって、いい意味で自分を変容させてくれる機会になるかもしれない。

 もう一つは「逆張り」だ。例えば自分が「やりたくない」「できない」「難しい」とマイナスのことばを用いて思考している物事を行動の優先順位の上位に定立し、やってみるのだ。これは意志力の問題でもあるけれど、意外とすんなりできてしまったりする。完成しないまでも、「どの部分ができなかったのか」「どこに困難があるか」が明確化・言語化されることの方が断然多い。「対話」と比べると時間がかかるのが難点だけれど、自分の経験だから「腑に落ちる」ことが多い。

 これは僕の勝手な意見だし、これをすれば絶対成功しますよ、なんてことが言いたいわけではない。人間はことばの呪縛から逃れることはできない。何度も言うがそれは原理的に不可能だ。でもそこで思考を閉じるのではなく、新しい視座へと到達するために(より簡単に言えば成長するために)個人的に必要なことなんじゃないかと思って、書いてみた次第である。

 まあでも、これをテキスト化している時点で、ことばの便利さを享受しているなあと思う。「不可能」ということばも使っているし。まだまだ修行が足りない。

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