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歴史を彩る無名戦士に花束を④小山田信茂

筆者は2008年から10年間、新聞記者をしていた。経済系の部署で企業を取材することが多かった。その経験からいうと、倒産する企業、ヤバくなる企業には1つの特徴があった。

退職者が相次ぐのだ。

とあるIT企業は半年間で財務責任者が3人交代したあげく、最終的に廃業においこまれた。融資していた金融機関は「話ができるひとがいない」と苦りきっていた。

別の上場企業では、ど派手なプロジェクトを打ち上げる社長を支えていたはずの役員がある日突然、退職した。話を聞いてみると「あの社長はやばい」ともらした。社長は後日、詐欺罪で逮捕された。

きょうの主人公、小山田信茂(おやまだ・のぶしげ)も、450年前、沈みゆく大きな組織のなかで悶えていた。「おれはどうすればいいのか」「いかに生きればいいのか」。かれの苦しさ、揺れる心境がきょうのテーマとなる。

かれの足跡をたどってみると、あらためて「組織人のつらさ」が身につまされる。

武田家の柱石

「武田二十四将」ということばがある。

武田信玄(たけだ・しんげん)につかえた武将のうち、とりわけ名高い24人をさす。信茂もこの1人だった。

「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」

これは山県昌景(やまがた・まさかげ)という、信玄の寵臣だった人物による信茂評だ。小山田氏は甲斐(現在の山梨県)の東部に領地をもつ有力豪族でもあった。人格識見、家柄ともに信茂が群を抜いた存在だったのはまちがいない。

黄昏の武田家

信茂がつかえた武田信玄というひとは、戦国大名の人気ランキングでも上位の常連だが、晩年はあまり明るい印象がない。

つねにあせっていた。

一回り若い織田信長(おだ・のぶなが)が、信玄をはるかに上回るペースで領地を広げていたからだろう。

今川家から嫁をもらっていた長男の武田義信(たけだ・よしのぶ)を、死に追いやってまで強引に今川家の領土に攻め込んだことなどは、その意識のあらわれだろう。

だが、年齢には勝てなかった。

信長と決戦すべく、大軍をひきいて京をめざしてまもなく、病にたおれて死んだ。

51歳だった。

武田家の衰退はここから加速する。

勝頼を支えるも…

信茂は信玄の跡を継いだ勝頼(かつより)を支えた。信玄の死から2年後の長篠の戦い。武田の騎馬軍団は、信長が用意した3000挺の鉄砲にまったく歯がたたず、壊滅的な打撃をうけた。散り散りになって退却する中でも、信茂は勝頼から離れず警護しつづけた。

その後、勝頼が喪主となって執りおこわれた信玄の葬儀では、信茂は御剣(みつるぎ)をもつという栄誉ある役目もになった。

勝頼は気負った人物だった。偉大な父をもつ2世特有のあせりかもしれない。

「おれはオヤジより強い」「弱いとみられたくない」

こういう意識がすぐ頭をもたげる。だから、無茶な積極策にでて、こっぴどく返り討ちにあう、そしてまた家臣団が動揺するーーー。こんな負のサイクルによって、武田家は日ごとに勢いをなくしていった。

信茂は落日の武田家になにをみたか。

ときに、面と向かって勝頼を諫めることがあったかもしれない。

だが、聞き入れられた形跡はない。

気がつけば、織田信長の足音はすぐそこまでせまっていた。

崩壊

1582年は激動の1年だった。

2月1日、まず勝頼の妹婿の木曽義昌(きそ・よしまさ)が信長方に寝返った。身内に裏切られるという、武田家にとってはとんでもない事態だ。これに対し、勝頼は義昌の生母や妻子らを殺害するという報復処置にでた。もはや勝頼に正常な判断力はなかった。

2月3日、信長は武田攻めを宣言する。

総大将は長男の織田信忠(おだ・のぶただ)、事実上の武田壊滅作戦だった。

武田軍はじりじり後退をつづけた。

3月3日、勝頼は居城である新府城(山梨県韮崎市)を捨てた。もはや迫りくる織田軍をまえに城を維持できないとみた。

ここで勝頼は1人の重臣の顔を思い浮かべた。

小山田信茂だ。

信茂のもとに身を寄せれば、あるいは再起できるチャンスがあるかもしれない。わずかな供回りとともに新府城をでて、信茂の本拠地である郡内(ぐんない、山梨県東部)にむかった。

最終局面で信茂は主君に頼りにされたのだ。

どうする信茂

信茂は頭をかかえた。酸っぱい胃液が逆流するような気分だった。

はっきりいえば、迷惑だった。もはや、敗北は避けられそうにない。勝頼を迎え入れたとしても、事態を改善させる策はおもいつかない。このままいけば、勝頼もろとも信長に滅ぼされる。起死回生の策はないか。

甲陽軍鑑という歴史書によると、信茂は勝頼一行を郡内の入り口の鶴瀬(つるせ)で待たせ、7日間返答を保留しつづけたという。苦悩の様子が浮かぶ。

信茂の決断

悩みぬいたあげくにとった信茂の行動に、筆者は人間の真理をみる。

わが身がいちばんかわいい、ということだ。

沈みゆく船と運命をともにするのは嫌だ。どうにかして乗り換えたい。極限の状態でかれは自身を正当化できる材料を探した。負けたくない、しかたがないんだ、生きるためだ、勝ち馬に乗ってなにが悪いんだ、繰り返しつぶやいた。

信茂は勝頼を裏切った。

勝頼一行に鉄砲をあびせた。

乾いた銃の音がひびいた。

最終的に勝頼は天目山(山梨県甲州市)で自害した。

最期

多くの歴史書は信茂を「裏切り者」呼ばわりしている。

ある唱歌では「隔てて聳ゆるは 岩殿山の古城蹟 主君に叛きし奸党の 骨また朽ちて風寒し」とうたっているほど。岩殿山とは信茂の城のことだ。

たしかに、信茂は織田軍に降伏後、「不忠者」という理由で妻子とともに処刑された。淡い期待とは裏腹に、わが身は守れなかった。

だが、それは結果論でしかない。

筆者が信茂の立場だったら、どうしただろうか。沈みゆく勝頼と行動をともにする覚悟をきめることができただろうか。人間はかくも美しく、きれいに割りきれるものだろうか。

残念ながら、筆者にそんな自信はない。

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