平成生まれが原爆投下について本気で考えてみる
こんにちは。
8月に入りいよいよ梅雨が明け、とてつもなく暑い日が続きますね。
皆さん出来るだけ水分を摂り涼しくしてお過ごしくださいね。
実は先日広島に旅行に行ってきました。
そこで原爆ドームや平和記念公園を初めてこの目で見てきました。
以前長崎にも行った事があり、長崎原爆資料館にも足を運びました。
そこで改めて思う事や感じた事があり、まだ2つ目の記事でこのテーマを書くのは迷いもあったのですが、
どうしてもこの日だからこそ書きたいと衝動的にPCと向き合っています。
さて、皆さん夏は好きでしょうか?
これだけカラッとした夏の空を見上げるたびに、
昔から思うことがあります。
こんなに綺麗な青空が広がる時期に戦争が終わったんだなあ〜と。
戦争中であってもこの平和な時代にあっても空の青さは変わらないのです。
当時の人たちは混乱の中で同じ青を見上げ、
一体何を想ったのでしょうか?
私は平成元年生まれです。
祖父や祖母が戦争を経験している世代です。
祖母はといえば東京生まれのため東京大空襲を経験しており、田舎へ疎開して先の戦争を生き残ります。
私が小学生の時に東京大空襲の時の経験を一度だけ話してくれました。
あちこちに焼夷弾が落ち、混乱の最中祖母は迷ってしまいます。
周りは当然火の海で見慣れた街は別世界。
そこで迷う祖母の手を引いてくれていたお兄さんがいたそうです。
ですがそのお兄さんに不幸にも不発弾が直撃してしまいます。
気がつくと祖母は転んでいてそのお兄さんの千切れた腕だけを持っていたそうです。
もしその焼夷弾が不発弾でなければ私は今こうしてこの記事を書くことはできませんでした。
※焼夷弾
木造の日本家屋を効率よく焼き払うため、第二次世界大戦時に米軍が開発した焼夷弾。着弾すると最大で30m程度の高さまで炎が飛び散る仕掛け。
一発の焼夷弾でさえこれだけいとも簡単に人の命を奪うのです。
果たして広島・長崎に落ちた原子爆弾はどれだけの威力だったのでしょうか。
ここからは戦争が始まった経緯、そして原子爆弾を落とすに至った経緯、実際に現地で原子爆弾の爪痕を見た私自身が思う事を書いていきたいと思います。
太平洋戦争は何故起きたのか?
詳しく書いてしまうとそれだけで膨大な話になってしまうのでポイントだけ簡単に整理してお伝えします。
皆さんアメリカとの戦争についてはどのような認識でしょうか?
アメリカと戦争するなんてバカだ。あんな大きな国とよく戦おうと思ったなと言う人も中にはいます。
子供の頃の私も知識が乏しく戦争のことを聞くたびに戦争を仕掛けた昔の日本はおかしかったんだと思っていました。
ですが知るにつれてなぜ日本が勝てない戦争を始めたのかが見えてきたのです。
当時の政権を握る人たちはアメリカの生産力や国力をわかっていなかったのでしょうか?
そこには当時の日本も戦わざるを得ない理由があったのです。
当時、世界は混沌の中にありました。
第一次世界大戦でヨーロッパは熾烈な戦いをしており、お金を使い果たしていました。終戦後さらに世界恐慌を迎えヨーロッパ全土にお金がなかったのです。
そのためヨーロッパの強国達はある施策に出ます。
それがブロック経済でした。
簡単に言うと他国と貿易せずに自国の経済圏だけで取引をして経済を立て直そうというものです。
当時のイギリスやフランスなどの国は自分たちの植民地がありました。
そのため充分に資源を確保できたのです。
そんな中でそれを面白くないと感じる国がありました。
ドイツ、日本です。
ドイツについては第一次世界大戦で負けてしまい、
多額の負債を抱えていました。
その上植民地があるわけではないので資源にも困ってしまうのです。
日本も日本で当然自国で資源は取れない。
その上ソ連の脅威も迫っている。
日露戦争に勝ったものの国民は戦費を賄うための増税に苦しむ状況。
政府は中国へ領土を広げ、防衛線を築き権益を確保したいという狙いが起こります。
アメリカは当時、世界で唯一お金持ちの国と言えたと思います。
アメリカは世界中にお金を貸し付けたり、武器を支援したりまさに世界の覇権を取ろうとしていました。
それぞれの思惑から以下の構図となるのです。
日本、アメリカ、ヨーロッパ諸国:中国へ狙いをつける
ドイツ:ポーランドや隣国へ狙いをつける
ここから日本は中国との泥沼の戦争を始め、
ドイツはヨーロッパとの戦いを始めていきます。
日本は中国との戦争が長引くと次第に資源不足に悩まされます。
そこで石油などが豊富な東南アジアへと目を向けるのです。
ですが中国を手中に収めたい、かつ日本の台頭を許さないアメリカ、イギリスなどが大いに反発し、日本への石油の輸出を規制します。
このままでは日本から石油が消える。
車や戦艦など全てを動かすことができなくなるのです。
ここで日本は最後の賭けとして、アメリカとの交渉の席につきます。
そこである交渉文書(和平条件)が日本側へ突きつけられるのです。
日本へ向けたハルノートの提示
コーデル・ハル国務長官と最後の会談に臨む野村吉三郎大使と来栖三郎大使(1941年12月7日)
アメリカ側が日本へ提示した交渉文書(和平条件)は、のちにハルノートと呼ばれます。
交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官の名前からこのように呼ばれています。
なんとか戦争を避けたい日本がそれを見た時、
その内容は日本を愕然とさせるものでした。
その中でも以下の内容は絶対に受け入れ難いものでした。
東南アジア、中国からの全面撤退
つまり日本は明治以降築いた全ての権益を捨てろというものでした。
これはアメリカで例えると、
ハワイやカリフォルニア・ニューメキシコ・テキサスなどを無条件で手離せというようなものかというとわかりやすいでしょうか。
当時戦争を避けるべきと動いていた東郷外相でさえも
「長年における日本の犠牲を全然無視し、極東における大国の地位を捨てよ、と。これは国家的な自殺に等しい。最早や立ち上がる外ない」
と言わしめるものだったのです。
つまり向こうが提示する条件通りに権利を放棄すれば国としての力が大いに削がれます。
それは諸外国の言いなりになることを当時は意味していました。
今のように仲良くではなく、常に日本という国を植民地化しようと諸外国が狙っていたからです。
逆に戦争をすれば大きな犠牲がでる。
その上勝てる見込みは果てしなく低い。
それは日露戦争で大きな国と戦った日本が一番よくわかっていました。
明治時代前の日本に戻るか。
勝てる見込みのない戦争をするのか。
もうやるしかない。
日本はアメリカとの戦争を決意するのです。
終戦後にこのハルノートは様々な歴史学者や有識者が持論を述べています。
その中でインドのパール博士は著書の中で、
ハルノートを「外交上の暴挙」と喝破しています。
パール博士については東京裁判の違法性について指摘しそれが書籍になっています。
私も読んだことがあり、戦争について違った視点で見ることができる貴重な書籍となっているので興味のある方は一度読んでみることをお勧めします。
※東京裁判
日本の敗戦後に連合国が「戦争犯罪人」として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の軍事裁判のこと。
Remember pearl harborという言葉
これはアメリカが日本と戦争をしている最中、アメリカ国民を鼓舞する為のスローガンになっていた言葉です。
開戦と同時に日本はハワイ真珠湾にあるアメリカの軍事基地へ奇襲攻撃を仕掛け多くの戦艦とアメリカ兵を海に沈めます。
本当に奇襲だったのかは様々な説がありますがここでは割愛します。
このリメンバーパールハーバーという言葉が後にアメリカを原爆投下まで突き動かす一つの原動力となって行くのです。
ここまで戦争勃発までの経緯を長々と説明したのは、
戦争が起きてからの出来事は知っている人が多くても
何故戦争が起きたのかを説明できる人が意外と少ないからです。
私たちのような戦争を経験していない世代は、歴史から学ぶことしかできません。
戦争が起きてからの悲惨さだけではなく、戦争が起きてしまった理由にも少なからず目を向けるべきだと思うのです。
そうすることで戦争の引き金になるかもしれない世界の情勢に敏感に気付くきっかけになるのではないでしょうか。
ここからは、テーマでもある原爆について書いていきます。
原子爆弾の研究と完成
トリニティ実験の写真
マンハッタン計画という言葉をご存知でしょうか?
マンハッタン計画とはアメリカがイギリスやカナダと共同で核兵器の製造のために科学者、技術者を総動員した計画です。
ここで肝心なのは、
当時アメリカだけが核兵器を開発していたわけではありません。
実は1940年代というのは原子核物理学が世界で盛り上がっていたのです。
当然、兵器利用できないかと考える国は出てきます。
ドイツや日本も例外ではなく同様に核兵器の開発は進めていたのです。
そこにアメリカが最も早く完成に漕ぎ着けた。ということなのです。
ただし、ドイツ、日本も研究と実験はしていましたが実際に完成した時にそれを使っていたかどうかまではわかりません。
1945年7月16日、アメリカ合衆国で行なわれた人類最初の核実験が成功。
この日をもって核の時代の幕開けとされています。
そこから1ヶ月もしないうちに日本へ実際に使われることになるのです。
日本へなぜ落としたのか
まずアメリカの公式な説明はこうなっています。
太平洋戦争における日本列島での上陸直接戦闘を避け、
早期に決着させるために原子爆弾が使用されたとするもの。
果たしてそうでしょうか。
ここからは個人的な見解になるのですが、
何か別の理由があったのではないかと思っています。
1945年8月当時、日本はすでにポツダム宣言を受けて降伏を受け入れる準備を進めていました。
しかしすぐに降伏を受け入れることができなかった理由の一つに皇室維持条項の記載がなかったことが上げられます。
つまり敗戦を受け入れた時点で天皇が処罰されてしまったり、
皇室自体が廃止になってしまうことを避けるため、
降伏の条件に日本側は皇室の維持を盛り込みたかったのです。
また、当時は軍部が強力な力をもっていたこともあり徹底抗戦を主張する派閥と降伏を受け入れる派閥とで議論が起きていたのです。
当時の日本はそう単純ではありませんでした。
アメリカもその情勢はわかっていた上で原爆投下に踏み切ったのです。
戦争末期にアメリカ国務長官代理を務めたジョセフ・グルーは、
10年間日本の駐日大使をしていました。
その経験から日本文化をよく理解しており、皇室の重要性を理解し、アメリカ政府へ皇室維持に関する条項を早期に盛り込むよう勧告を出していました。
もし仮に早期に皇室維持に関する条項を日本側へ提出していれば、
原爆の完成を待たずして日本が降伏に踏み切り実際の原爆投下は起きなかったであろうと後に語っています。
長崎市内
広島市内
アメリカが日本へ原爆投下を行った理由として、
世界へ自身の力を誇示したかったのではないかと思っています。
ヨーロッパの強国はドイツとの戦争で疲弊しきっており、
そのドイツも指導者を失いすでに降伏していました。
アジアで覇権を持っていた日本はもう降伏目前です。
目の前に立ちはだかる脅威はもはや、ソ連のみ。
世界の覇権を握る目前となったわけです。
その立場を強固なものにするために核兵器を使用するという実績を作ることが重要と考えたのではないかと。
核という脅威をすでにアメリカが手にしており、
いざとなればその力を行使出来るという姿勢を世界に見せたかったのではないでしょうか。
あまり考えたくはないですが、もしかすると実験の意味合いもあったかもしれません。
そうでもなければあのタイミングで日本へ核を落とす理由が見つからないのです。
だからこそ当時のアメリカ政府はリメンバーパールハーバーという言葉を使い、原爆投下の正当性をアメリカ国民に訴えたのではないでしょうか。
この原爆投下は必要なことだったのだと。
現にマンハッタン計画に携わった科学者の方と被爆者の方の対談が実現したことがあります。
そこで科学者の方はこう言い放ちます。
私は謝らない、こんな言葉があるんだよ、
Remember pearl harbor(真珠湾を忘れるな)。
戦争の話になると、今でも両者の溝は深いのです。
原爆投下についてのアメリカ、日本双方の国民感情
原爆の死者数は長崎と広島を合わせて21万人程度となっています。
これは実際に遺体が見つからない人もいるため推定の数値となります。
勿論それだけではありません。
生き残った後も被曝に苦しんだ被爆者の方が大勢いるのです。
爆発時火球中心温度は100万度/Cと言われており、
太陽の表面の温度は約6000度となるのであの太陽と比較してもその破壊力の凄まじさが伝わります。
下記の画像は近くで撮影した広島の原爆ドームです。
瓦礫の山と折れ曲がった鉄骨がその凄まじさを今も伝えていました。
その破壊力を現地で肌で感じることができました。
同じ日本人として悲しくて悔しくてとても辛いことです。
アメリカ国民の間では原爆投下について、
長崎の原爆投下は必要なかったと感じている意見があるそうです。
つまり裏を返せば一発目の広島への原爆投下は必要だったということです。
原爆投下により戦争が早期終了し、多くの米兵が救われた。
そして日本人も戦争が長引かなかったことで多くの命を失わずに済んだというのです。
※これはあくまでアメリカ国民の方の全ての意見ではなくそういった意見があるという紹介です。
語り継がれる多くの経験談、残された資料を見た上で。
私は原爆が落ちて良かったなどとは当たり前ですが決して思えません。
あの爆弾を民間人が暮らす市街地に落とすことは、
絶対に必要なかったと思うからです。
絶対にです。
あれだけの虐殺を正義だと言い切ることは絶対にできないはずなのです。
ですが常に歴史では勝者に正義を語る権利があり、
それを堂々と体現しているのがアメリカという国なのです。
もちろん双方の国に正義があり、言い分があります。
ここについてはどちらが正しいということはありません。
何故なら当時戦っていた双方の方々でさえこの答えは出す事ができないのですから。
私はアメリカが嫌いではありませんし、むしろ音楽的なカルチャーや文化。
オープンな国民性は大好きです。
アメリカへの憧れもありますし尊敬もしています。
ただあの出来事を、
悲惨な戦争が生み出した副産物として風化させないために。
原爆投下に対してアメリカを憎むことではなく、
唯一の被爆国としてあの原爆投下がどのように世界で捉えられているのか。
双方の視点で、様々な国の視点で知る事が重要ではないかと考えています。
これからも戦争の無い世界で生きるために
広島の平和記念公園に行った際にとある光景を目にしました。
慰霊碑の前で小さい男の子が手を合わせてお祈りをしていたのです。
その後、母親の元へ笑顔で駆け寄って行きました。
まだ小さい子供でさえここで起きた出来事の悲惨さを理解しているのです。
男の子が手を合わせてお祈りしていた慰霊碑
これから戦争体験者がこの日本からはいなくなる時代が始まります。
喜んで迎えるべき時代ではありますが、その悲惨さを語り継ぐ体験者が消えることは怖いことでもあります。
ですが、その男の子のお祈りする姿を見た時。
不思議と大丈夫だと感じました。
これからも戦争を知らずに、
でも戦争の悲惨さを理解できている世代。
そういった世代が正しくこの世界を牽引してくれると思います。
私もその中の1人でありたい。
今日は8月15日。
この国は75回目の終戦記念日を迎えます。
今日も変わらず、家族が笑い合い平和な夏の1日となりますように。
最後に、、、、
平和記念公園の慰霊碑に刻まれた言葉を紹介させてください。
石碑には、こう刻まれています。
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
戦争による犠牲者の方々のご冥福を心よりお祈り致します。