プラナリアを追いかけていたら来年医者になってしまう
小さい頃から勉強を特別好きだとかおもしろいなんて思ったことはなかったけど、高校生物の資料集に載っていたプラナリアは好きだった。
切っても切っても生きていて、増えていって、なんて不思議な生き物なのだろう。
仲の良かった高校の生物の先生に、「プラナリアってどこまで小さくできるのか」「もともと一つだったプラナリアと小さく切られたプラナリアはどういう関係なのか」などと聞きまくった記憶がある。
雑談の延長で思いつくまま聞いたけれど、先生は意外なほど真面目な顔で、「わからないんだよ」と言った。
「調べても特段有益なことがあるとは思われていないから、誰も調べないんだよ」と。
なんとなく、私にとってその言葉は驚きだった。
研究って、趣味とか興味とかそういうものだけで成り立っているわけではないんだと。わからないままみんなが放置していても別に問題がないんだと。
私の中のプラナリアブームは一瞬で過ぎてしまったし、勉強も好きに離れなかった。でも、そのときの生物という科目を好きになってしまった気持ちを温めまくっていたら、翌年医学部に進学してしまった。
医学部では、医師としての働き方を素晴らしさも知ったし自分の使命なんかも考えるようになった。行きたい診療科も見つかって、憧れの臨床医とも出会えた。やりたいことを考えるよりも、まず一人前にならないと、と日々忙しく過ごしていたらあっという間に最終学年になった。
就活…将来……と日々壁に頭を打ち付けていたら、
研究がしたい、と気づいた。
自分の力で有益な発見できるかもわからないし、ノーベル賞をとるような大勢の命を救うものではないかもしれない。大層な夢を語れるわけでもないし、特別優秀な人材というわけでもない。
でも、たぶん、私は研究者を目指してしまうんだろう。
あの日からずっと、夢とか好奇心がプラナリアみたいにちぎれて分裂しては膨らんでまた生きていく、そんな世界の中に私はいるんだと思う。
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