強い女とは揶揄なのか

わたしはよく”強い”と言われる。

関西出身で東京在住だから話し方や文化の違いからくる印象、という部分もあるだろう。だが、誰かに形容されるその言葉からはどうしてもポジティブな響きを感じられない。言葉の端にある女なのに”強い”という評価を感じとってしまうのだ。

わたしは強い女性が好きだ。自分の思想を持ち、それを言葉として表現できる人間は美しいと思う。出る杭が打たれるこの日本社会で自分の考えを発するということは、まるで矢面に立つようなもので、批判や邪推に傷つけられることも多いだろう。それでも自分の信条を主張でき、自分の言葉を発するということはあまりに貴く、美しい。

だが、そう思わない人が多いことも知っている。特に、女性に関しては。

わたしは滅多に男性が”強い”と形容されている瞬間を目にしない。何故ならそれは、男性を形容する際には別の言葉に変わるからじゃないだろうか。

”リーダーシップがある” ”頼りがいがある” ”男らしい” 

どれもポジティブな響きを感じる。そこにはたしかに”男らしさ”というステレオタイプがあるのだ。反対に女性対するステレオタイプもまだまだ根付いている。

”おしとやか” ”相手を立てる” ”大和撫子”

無意識にそういう守られる存在であることが美徳、とうい認識が無意識の中に存在するのではないだろうか。だからこそ、その対極である”強い女”という言葉の裏に揶揄されるような響きを感じるんじゃないだろうか。

そして”強い”と表現されるたびに、わたしはこの社会で女として生かされているのだと突きつけられる。それは、わたしがナベシャツで胸をつぶそうが、髪を刈り上げようが、必死に筋トレをしようが、足に靴擦れを作りながらブーツを履いて背を伸ばそうが、どうしようもなくわたしに付きまとうのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?