自分の人生脚本に気がつく

親の面前DVの影響で、私は暴力的な人間と怒鳴る人間に対して極度の恐怖心があります。

トラウマによる後遺症です。
人を傷つけたという事に関して、父親のやった行いは許される事ではないと思います。

私は面前DVの反動で、暴力的で支配的な人間に過度に反応しては、自分の正義感をぶつけてしまいがちでした。

ただ、父親がそういう人間として生きるしか無かった事を理解したことで、怒りを手放せました。そして勝手に、いい意味でどうでもよくなったのです。

父は虐待されていた人でした。
父もまた被害者でした。
父の人格の歪みは、父本人の責任ではなかった。けれど、父のしたことは父の責任です。

人格に歪みがあるのは私も同じです。そして私がそうなったことは親の責任であり、私の責任ではありません。けれど、私が私として生きる以上、私のすることの責任は、私へ返ってきます。

私と父が違うのは、私は私の人生の責任を自分に戻す決意をして、その様に行動していることです。
父は親の歪んだ認知を呑み込んだまま一生を遂げただけのことです。そして、その為に多くの人が巻き込まれました。

もっと前は、「だからって他人を巻き込んでいいことにはならない」とか「だからって子供を虐待していいことにはならない」と思っていました。これはとても端的な考え方だと今は思います。

私の認知がそもそもは親の認知だとして、それを知らずに生きていたとすれば、それはもう親の操り人形でしかない。人形を動かす人間が、良心的な人ではなかった。それによって加害的被害的な認知が私にも出来上がっているのです。

マリオネットに包丁を持たせて、そのマリオネットが別のマリオネットを攻撃します。マリオネットは歪んだ人に操られただけでした。それでも攻撃したのはマリオネットです。責任はどこにあるのでしょうか?マリオネットですか?操っている人でしょうか?

私は、操った人が攻撃したも同然だと思います。人形と人間ならばそう言えます。

ではこれが、自分と毒親ならどうですか?
これは、親のせいにする事で自分の人生の責任を自分が放棄している状態です。今も操られたままの状態だという事に私は気がつきました。

親のせい。親が…親が…
確かに私の認知の責任は親にあったけれど、大人になった今は、私自身が自由に認知を変えられるし、変わることもできるんです。

父を動かしていた父の親の認知は私は知る由もありません。ですからもちろん父のしたことの責任は父にあります。いいえ、その前に、父の責任は自分を知ることでした。

マリオネットは自分で考えて、自分の操者に気がつくならそこから解放される道もあるかもしれません。包丁を持たされて他人を攻撃する事を自分でやめる事もできるかもしれません。

私は、自分の人生の責任を自分に戻すとは、先ずは自分の操者(認知の歪み、思い込み)に気がつく事だと思っています。
自分の人生の脚本に気がつく事、自分を知る事の方が、ずっとずっと大切なことです。

そうでなければ、虐待の連鎖は続きます。

そしてそれが、虐待されてきた人が子供へ果たせる責任だと私は思っています。



私はずっと、空っぽで空虚でとにかくとても虚しい人生を送ってきました。自分がわからず、自分を見失っていました。操られたマリオネットです。

だからこそ、あの父も、あの母も、ありのままの人達ではなかったんだと感じます。
自分を知らない人達が、知らない者同士で出会い、なるべくしてああなったのだと思います。

私の許しは、自分の人生の責任に集中したときに、自然とどうでもよくなっていきました。

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