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キューバで考えた「ありがとう」の意味

キューバのカフェで、日本語を勉強している若者たちと話したあと、4人分のコーヒー代をまとめて支払ったときのこと。なかでも日本語の流ちょうな20代男性はすまなそうな表情で、こう気遣ってくれました。

「まとめて払ってもらって心苦しい。(外国人でなくとも)キューバ人同士でも、そのとき払える人がみんなの分を持つことが多いし、ぼくたちは『ありがとう』とも言わないんです」

コーヒー代はひとり200円もせず、外国人が使う通貨(昨年まで、キューバ住民と、外国人の通貨は別だった)で支払う店だったので、「マイ・プレジャー(喜んで!)」と言ったものの、「なぜありがとうを言わないのか」が気になりました。

彼は日本語をしっかり教科書で学び、日本文化にも通じていたので、日本語の「ありがとう」を意識して、私にこんな話をしたようです。

彼の話を聞きながら、キューバでは「たまたま余裕がある人がシェアをする」という感覚で支払い、その人が困っているときは別の人が支払う、といった「おたがいさま」の意識があるように思いました。

あふれんばかりのホスピタリティ

もちろん、キューバの人たちが礼節を重んじていないわけでは、決してありません。むしろあふれんばかりのホスピタリティがあり、家に客人を招くと、モノ不足の折でも、家にあるだけの酒やごちそうをふるまい、心からのもてなしをしてくれることが多いのです。

キューバで生活したことがない私は、感謝を示す"Gracias(グラシアス)"がどう使われているかについて、細かいところはよくわかりません。

ただ社会主義国のキューバは貧富の格差が比較的少ないなか、慢性的なモノ不足に悩まされている。そんななかで、市民が助け合う関係が自然にうまれてきた背景もあるのではないかと思いました。

この出来事は「ありがとう」が人間関係の潤滑油だと信じてきた私にとって、目からうろこでした。

もちろん、感謝の気持ちは持っていたいし、表現もしたい。

しかし、こうも考えました。「ありがとう」はもしかすると、人との距離を作ることもあるのではないかと。

「ありがとう」は仏教に由来する言葉で、お釈迦さまが「この世に生まれてくるということは、とても希少で『有難い』ことだ」と話されたというエピソードがあります。

人からの厚意に対して「ありがとう」というとき、私は「有難い=めったにないこと」で、さらに「迷惑をかけている」と、心ぐるしさをおぼえるときさえもあるのです。

「ありがとう」を「うれしい」に

誰かがドアやエレベータの扉を開けて待っていてくれたとき、つい「(お待たせして)すみません」と言ってしまう。逆の立場なら、ただ「当然のことをしたまで」と思うはずなのに。

自分がときに人に頼りづらかったり、人からの厚意を受け取りづらかったりするのは、「ありがとう」にこめる気持ちに重なるのかもしれない。

そこで、「ありがとう」を言わずに、感謝の気持ちを「うれしい」に言い換える実験をしてみました。

「手伝ってくれてうれしい」というふうに。

言ってみたら、相手との距離が縮まった感じがしました。

「ありがとう」をきっかけに、人との関係をどう作っていきたいのか、考えさせられる今日このごろです。

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