当然のことをしただけです(外交官杉原千畝を想う)
【目次】
1.「今、このnoterが面白い!」に選ばれました
2.日本海の港町 敦賀
3.杉原千畝(すぎはらちうね)の生い立ち
4.命のビザ
5.当然のことをしただけです
1.「今、このnoterが面白い!」に選ばれました
前回の筆者の記事「焼き鳥と鉄の町を訪ねて(室蘭紀行)」が、山門文治さんの「今、このnoterが面白い!」に追加された、との連絡をいただきました。
あなたの「焼き鳥と鉄の町を訪ねて(室蘭紀行)」が 「今、このnoterが面白い」選考担当に追加されました。
ありがとうございます。読者の皆様のおかげです。大変、励みになります。まだ、noteを始めて間もないのですが、これからも歴史エッセイや、歴史にまつわる紀行文を書いていきたいと思います。特に今まで評価の低かった人物や、あまり着目されなかった人や事実を掘り起こして紹介していきます。これからも「makiryo9」を、よろしくお願いいたします。
2.日本海の港町 敦賀
敦賀市は福井県嶺南(れいなん)地方の人口6万ほどの中核都市である。県都福井市との間には難所の木の芽峠があり、若狭や近江との関係が深い。琵琶湖の北端までは市街地からは20kmほどで、関ヶ原を抜ければ伊勢湾に達することもできる。
古来より交通の要衝で、日本海側で陸蒸気(おかじょうき)が最初に走ったのがここだった。明治15年(1882年)3月10日、長浜-金ヶ崎間が開通した。これは新橋-横浜、神戸―大津、手宮―札幌、釜石鉱山に続くもので、敦賀駅の開業も名古屋駅や福井駅よりも早かったのである。
旧敦賀港駅は金ヶ崎駅として開業し、後に鉄道桟橋を新築移転して敦賀港駅と改称した。明治32年(1899年)7月に開港し、同35年敦賀―ウラジオストク間に定期航路が開設されると、同45年6月から新橋-金ヶ崎間に1・2等寝台車を連結した欧亜国際連絡列車が運行され、シベリア鉄道を介してパリやベルリンと半月余りで結ばれることになった。
その後、昭和32年(1957年)10月、田村―敦賀間に、最初の本格的交流電化が完成した。その5年後には当時日本一、世界でも5番目の入る北陸トンネルが開通したのである。令和2年には、敦賀、長浜などにまたがる鉄道の物語が日本遺産に認定された。令和6年3月16日、北陸新幹線の金沢―敦賀間が開業され、東京といよいよ直結されることになった。観光客がこれを機に増えてゆくことを期待したい。
港町敦賀は若狭湾の自然の恵みには事欠かない。冬の越前ガニは言うまでもなく、北前船の伝統を受け継ぐおぼろ昆布、かまぼこ、焼きサバ、へしこなど、名物は満載である。さらに福井県で「カツ丼」といえば、卵とじではなくソースカツ丼をさす。その元祖が福井市片町の「ヨーロッパ軒総本店」、そして県内のれん分け第一号が「敦賀ヨーロッパ軒本店」である。
早稲田鶴巻町でヨーロッパ軒が創業された後、横須賀に移転したが関東大震災で倒壊。24年に郷里の福井に戻り、ヨーロッパ軒(現総本店)を開いた。敦賀ヨーロッパ軒は39年12月、創業者の高畠増太郎氏の下で修業を積んだ赤坂耕二氏が創業(当初は敦賀分店)。伝統を受け継ぐレシピは今も全く変わっていないと言う(両丹日日新聞2014年9月1日の記事より)。
3.杉原千畝(すぎはらちうね)の生い立ち
1940年代に「命のビザ」を携えたユダヤ難民が上陸したのも敦賀の港だった。第二次世界大戦中にリトアニアのカウナスに赴任していた杉原千畝は、ナチスドイツの迫害を逃れてきた人たちに1940年7月から8月にかけて、本省の訓令を無視してまで大量に発行したのだった。
彼は1900年(明治33年)1月1日、岐阜県武儀郡(むぎぐん)上有知(かみこうずち)町(現在の美濃市)に誕生した。税務官吏の父・好水(よしみ)は転勤が多く、千畝も各地を転々とした。父は彼に医者になることを勧めたが、これに反して早稲田大学高等師範部英語科の予科に入学、英語の教師になりたかったという。
父からの仕送りもなく窮していたある日のこと、地方紙に官報の掲示(外務省留学試験)を知った。彼は大学の図書館に籠って猛勉強して、ついにこれに合格したのだった。1919年(大正8年)、早稲田大学を中退して、外務省の官費留学生として中華民国のハルピンに派遣されて、ハルピン学院の聴講生としてロシア語を学ぶことになる。彼のロシア語はずば抜けていた、との証言があるほどで、母校のハルピン学院でロシア語講師を務めることになったのである。
1932年(昭和7年)、満州国が建国されると、千畝は満州国政府の外交部に出向する。この時、書記官としてソ連との北満州鉄道(東清鉄道)の譲渡交渉を有利に進めて、高い評価を得た。これより前、1924年(大正13年)、白系ロシア人クラウディア・アポロノワと結婚したが、1935年に協議離婚している。
千畝はロシア通を買われて、関東軍の橋本欣五郎からスパイになるよう要求されたがこれを拒否、1935年(昭和10年)には満州国外交部を退官した。満州国の軍部の横暴に耐えかねたようである。クラウディアとの離婚もこれに関係したものであったかもしれない。帰国後、彼は知人の妹の菊池幸子と結婚し、日本の外務省に復帰したのであった。
4.命のビザ
外務省に戻った千畝はこの後、モスクワの日本大使館に赴任する予定だった。満州国時代の白系ロシア人グループとの繋がりのために、ソ連当局は千畝を「ペルソナ・ノン・グラータ」として、ビザの発給を拒んだのである。当局が警戒するほど、彼の活動歴と人脈があったのであろう。
1937年(昭和12年)、彼はフィンランドのヘルシンキ日本公使館に赴任した。ノモンハン事件で手痛い敗北を味わった日本政府は対ソ諜報活動を重視したためとされる。さらに、1939年(昭和14年)、リトアニアのカウナス日本領事館領事代理に転じて、8月28日に着任した。
直後の9月1日、ドイツはポーランド西部に侵攻して、第二次世界大戦が勃発、9月17日にはソ連軍がポーランド東部へと進撃する。翌1940年6月15日には、ソ連軍はリトアニアにも進駐を開始している。同国の首都リガには日本大使館があったが、カウナス領事館は外務省の直接の指示命令系統にあり、大使館とは関係なかった。独ソ間の軍事情報の収集が任務だったのである。
この間、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに亡命してきたユダヤ人たちは、各国の大使館・領事館からビザを得ようとしていた。リトアニアはすでにソ連の占領下にあり、大使館の閉鎖を求めており、まだ業務を続けていた日本領事館に彼らが殺到したのはこうした事情があった。本省からは受給条件を満たす者に限定するよう再三勧告をうけていたが、罷免を覚悟で1940年8月31日、領事館を閉鎖して離任の列車がカウナスを発車するまでビザを書き続けたのである。
「命のビザ」で救われたユダヤ人が何人だったか正確にはわからないが、その数は4,500人とも6,000人とも言われる。千畝のビザを手にした彼らはシベリア鉄道で極東のウラジオストクに向かい、船で日本の敦賀港に上陸した。千畝のビザはトランジット・ビザだったので、さらに横浜や神戸から最終目的地へと旅立ったのである。
5.当然のことをしただけです
千畝はリトアニアを出ると、チェコのプラハに赴任した。ここでもビザを書き続けていたと言う。さらに東プロイセンのケーニヒスベルクに移る。ここで、独ソ開戦の秘密情報をポーランド諜報機関から入手して、1941年5月9日本国に打電している。ドイツ側も千畝の諜報活動を警戒したため、彼はここを離れ最後の赴任地となるルーマニアのブカレストへ向かった。
ここで、終戦を迎えた彼はソ連軍に拘束され、1947年4月にようやく博多港に上陸できたのである。帰国した千畝のもとに、1947年6月外務省から退職通告書が送付されてきたという。その後は、ロシア語が堪能だったので、貿易会社などを転々とした。住居は藤沢市鵠沼で暮らした後、晩年は西鎌倉に転居している。
1960年(昭和35年)に川上貿易のモスクワ駐在員となり、その後蝶理の国際交易モスクワ事務所長などを務めたのである。1978年(和53年)に退職してようやく帰国した。その間、杉原ビザの受給者であるユダヤ人たちは千畝を探していたが、1968年(昭和43年)から翌1969年(昭和44年)にかけて、ついに見つけ出すことに成功して、感動の再会を果たすことになる。
1986年(昭和61年)、千畝は鎌倉市内の病院で死去した(満86歳)。彼はその人道的行動について聞かれても「たいしたことをしたわけではない。当然のことをしただけです。」と答えたという。彼の名誉が正式に回復したのは、河野洋平外務大臣による演説で、彼の死からなんと14年も後の2000年10月10日のことだった。(完)
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