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第53話:進行

 ぶっこちゃんのボケっぷりは日々波がある。その日の天気や気温によって左右されるし、誰に会うかによっても異なる。特に、お腹の調子で変化が大きいようだということは最近わかってきたことで、どうも機嫌が悪いと思っていたらお腹が痛いと言ってトイレに籠もることもしばしば。トイレは今のところ一人で行っているため、最初は当たり前のように鍵をかけていたのだが、もし倒れたらという心配があるのでかぎをかけないでほしいと言ってある。
 でもまぁ言って理解してその通りにするならば認知症ではない、長年のルーチンは頭を介さずに鍵をかける。そんなわけだからしのぶも負けじと外から鍵を外す方法をあみだした。
 幸い古い鍵なものだから簡単なことで、外から鍵がかかっていることがわかる赤の表示部分を器用に指でくるくると回して青にするのだ。
 寒い時期のトイレは特に危険だとテレビのアナウンサーが言うので、トイレにもオイルヒーターを置いて常春空間を実現したら電気代が嵩んだ。
 その分節約せねばと、食事は野菜中心になった。
 ぶっこちゃんによって日常がまわり、ぶっこちゃんによって家計もまわる。
 預金残高は年金を加算しても毎月減る一方なのだが、およそ百歳までは生きていられる蓄えはあるから、もうこうなったら思う存分快適な環境を作ってあげたいとしのぶは考えていた。
 そして、そんなしのぶの思いに応えるようにぶっこちゃんは毎日笑ってくれるし、笑わせてくれている。
 ただ、確実に言えることは、波があるボケっぷりの中でも認知機能は低下している。認知機能だけではない、運動機能も、食事の量も、少しずつではあるが、確実に衰えているのである。
 それが生命の宿命なのだから、仕方ないのだけれど、この先もっと悪化してきたら、このままで大丈夫だろうかという心配が、時折しのぶの脳裏をかすめた。
 週に二度のお風呂介助は手慣れたもので、木曜日は髪も洗うと決めて行ってきた。ぶっこちゃんは認知症ながらもお風呂ルーチンを覚えてくれて、ホカホカと体からいい香りの湯気を登らせて脱衣場の椅子で一息ついていた。
 しのぶは安心しきって風呂洗いをしていた。風呂場と脱衣場の仕切り戸はすりガラスの引き戸になっていて、着替えをしているぶっこちゃんの姿が写っている。その姿がどうも、もそもそともがいているように見えたので、しのぶは引き戸をそろりと開けてみた。
 そこに居たぶっこちゃんは、パンツに腕を通して、そのパンツに頭を押し付けている。どうやら、頭を通すところをさがしているようである。
「ふぅ」と一旦腕を下ろし、パンツを見つめている。そしてまた、被ろうとして、被れずに、腕を下ろす。
「これ、難しいわ」
 ぶっこちゃんはこぼした。
「そうか、難しいか」
 しのぶはそう言って、扉はあけたまま、風呂掃除に戻った。少し、笑みがこぼれる。
 その後も何度かチャレンジしては頭を通せず、ぶっこちゃんが少し苛立ってきた頃、しのぶが風呂掃除を終えた。
「これ、うまいこといかんわ」
 ぶっこちゃんは文句を言う。
「そういうときは、一旦脱ぐねん」
「そうか」
 しのぶにそう言われ、ぶっこちゃんはようやく手に通していたパンツを脱いだ。
 結局この日はしのぶが全部着せてやった。ぶっこちゃんが、疲れた様子だから仕方ないと思いつつも、こうやって介助する部分が増えていくのかなと思った。
 しのぶはいい。やってあげることに苦はない。できないことが増えたとぶっこちゃん自身が落ち込むことのないようにしなきゃなと、思っていた。
「うわぁ、大きい苺やなぁ、これどこのや」
 湯上がりのぶっこちゃんがキッチンのテーブルにあるお宝を発見したようだ。
 元々風呂嫌いだったぶっこちゃんのために、湯上がりには毎度お楽しみを用意してあるのだが、この日は前日にメイコがくれた苺をテーブルに出しておいた。
「奈良県産て書いてあるわ」
 ぶっこちゃんの喜ぶ顔を見たくて、しのぶもキッチンに入ってきた。
「そうかぁ、ほんなら和歌山やな」
 漫才やったら絶対うけるわ、としのぶは笑ったが、当のぶっこちゃんは何のことか分からず苺に見とれていた。

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