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「愛がなんだ」感想文

愛がなんだ感想文

原作、映画ともにとんでもなく面白かった「愛がなんだ」

あまりにも面白かったので、映画を見終わってすーぐ、スケジュール帳の一番後ろのメモに感想を書き殴ったし(エンドロールが終わっても書いているので一緒に観た女友達が消えていた)、原作には気づいたら付箋がびっしり貼ってあった(普段は貼らない)。

とにかく面白かったのです。二つの「愛がなんだ」は同作品なのに別作品で、台詞も、見える風景も、結末もまるで違いました。当然ながら感じることもまるで違って、より長い時間、この作品が私の中で動いていました。

あまりにも面白かったので、読書感想文を書きました。

知らない方のために映画の公式サイトのあらすじを引用させて頂きます。

猫背でひょろひょろのマモちゃんに出会い、恋に落ちた。その時から、テルコの世界はマモちゃん一色に染まり始める。会社の電話はとらないのに、マモちゃんからの着信には秒速で対応、呼び出されると残業もせずにさっさと退社。友達の助言も聞き流し、どこにいようと電話一本で駆け付け(あくまでさりげなく)、平日デートに誘われれば余裕で会社をぶっちぎり、クビ寸前。大好きだし、超幸せ。マモちゃん優しいし。だけど。マモちゃんは、テルコのことが好きじゃない・・・。

また映画「愛がなんだ」予告編が見れるのでそちらも是非。

「幸せになりたいっスね、」
「うるせえばーか」

………

一言で言えば恋愛小説。でも人に紹介する時に「これ、恋愛の話なんだよね」っていうのに抵抗がある作品。レンアイか…。これはレンアイなのか?

これが恋愛というなら、世の中に蔓延している恋愛という名前で繰り広げられているものは何なのだろうか。なんというか、読み終わってすぐ「あー物語があってよかった」と心から安心した。名前がないものを伝えるために物語があるんだろうな。
それでは前置き長いですが感想noteです。
内容はこちら(ほんのりネタバレ有)


「友達にテルちゃんみたいな人いる」と思って観てた

作品の中でテルコが言われる言葉がある。

「悪いこと言わないから、やめときな、そんなおれさま男。また前とおんなじことになるよ。」
「なんだかあぶなっかしいのよね。(中略)テルちゃんはなんだかあぶなっかしい恋愛ばかりしているから、心配しちゃうのよ。」

この台詞を聞いた時

(いるいるいるいるーーー、こういう友達いるーー、というか、先々週全く同じ言葉を友達に言ったーーーーーー。)

と思った。大げさでもなんでもなくそのまんま言ったのだ。

私が言ったとき「そんなことはわかっているのだ」とその子の顔に書いてあったので、おそらくこれまでも何十回と言われてきたのだと思う。


そんな私のお友達、どこがテルコに似てるのか、と考えてみた。

自分の恋愛を客観的に話そうとするところ。相手の欠点に自分だけでも味方になろうとするところ。連絡は自分からしない、でも求められたら十二分に返す奉仕精神。など。

考えてみて思ったけど、大なり小なり自分にも思い当たる節がある。そういえば、私もテルコだった。みんな人のことはあーだこーだ言えてしまうのか、とそのうち反省の念にかられた。

そういえば作中の葉子も、テルコの恋愛にはいっちょ前に説教するけど自分も同じ誤りをしている。作中テルコがナカハラくんに言っていた。

「なんか、葉子むかつかない?失礼だっつーの。(中略)ナカハラくんに対してだっていい気になりすぎっていうか。つきあうつもりはないけど、嫌われたくはないってことでしょ?何かしてあげるつもりはないけど、何かしてもらいたいわけだよ。図々しいよ、そんなの。なにさまだっつーの。」

葉子にはこんなにド正論言えるのに、同じことしてる想い人マモちゃんには一ミリもこんな感情を出さない。というか怒りが沸いてすらいない感じがする。

テルコの振り見て我が振り直せ。みんなテルコのようではないけど、テルコのようになり得るのだ。と感じた。

どうしてテルちゃんとマモちゃんは恋人ではないのか

すみれさんが作中こんなことを言っている。

「(中略)だから田中も本当は、テルちゃんみたいな子とつきあえばうまくいくんだよね」

この瞬間私は本当に激しく同意した。頭が取れそうなくらい頷いた。確かにマモテルはバツグンに相性がよさそう。マモちゃんは自己中心的だし、テルちゃんは自分の意思をすべて明け渡すことができる性格である。

ではなんで付き合うことにならなかったのか。

それはテルちゃんが「一般的な恋愛の仕方」に当てはまらなかったからだと思う。

「一般的な恋愛」は何も知らない二人が出会って、お互いのことを少しずつ知って、そのうち相手のことが気になりだし、好きになればなるほど知りたいという欲求が生まれる。

テルちゃんは真逆だった。好きになればなるほど自分を消していった。

テルコは「相手の願望が全て叶う」瞬間に初めて自分の喜びを見出す。原作はそこがとても丁寧に描かれていた。それはなにもマモちゃんに対してだけではない。家族に。友達に。その場にいる名前も顔も知らない人に。柔軟に対応していくのが山田テルコなのではないかと思う。

マモちゃんがやりたいこと、求めていることすべて叶えようとする。それ以上に、もしかしたから叶ったら喜ぶかもしれない不確定なものまで叶えようとする。

きっと、きっと、マモちゃんはテルコのことがわからなかっただけなのだ。

「不思議ちゃんっていうか、不気味ちゃんっていうか」

マモちゃんはテルコのことが知りたかった。本当は何が好きで、何が嫌いで、何をしたかったのか。マモちゃんが右といえば右、左といえば左に進む彼女の中から生まれる、「マモちゃんでさえ変えられないテルコの領域」みたいなものを知りたかった。

そうしたらきっと、もっと別のシナリオが待っていたかもしれない。

テルコとマモルが出会ったとき確かに二人は「テルちゃん」と「マモちゃん」だったし、そこにはなんとなく恋が始まりそうだな、という感情が二人の中には確かに、確かに存在していた。

愛はなんだ、じゃない、愛がなんだ

この映画を見たら、きっと誰もが愛について考える。

愛って何だろう。
これは角田光代さんからの問題提起に聞こえる。
でもこの小説のタイトルは愛はなんだ、じゃない、愛がなんだ。なのだ。

それは反骨精神。決意表明に近いものではないかと思う。

私はテルコに強い勇気をもらった。世間とのズレがある自分の「愛」に近いものが揺らぎそうになった時、その大きな意見に負けないで、愛情を注ぎ続ける勇気をもらった。

みんなの言う愛が何だっていうのか。
そんなものは関係ない。しったこっちゃない。
恋が何だ。
愛が何だ。
世間からはみ出した名前のない関係も、それはそれでいいのではないか。
分かりやすいものばかりが受け入れられなくてもいいのではないか。

そんな大きな肯定感に包まれた気持ちになった作品でした。

おまけ:映画にしかなかった好きなシーン

机の汚れ。鍋。靴下。足。Tシャツのイラスト。写真。
人の顔以外で感情を想像していく過程は、小説を読んでいるようでした。

ここで映画での好きなシーンをご紹介させていただきます。

退社した時の公園でのテルコ。
「世の中回すために生きてるんじゃないからね」

年越しの時、葉子の母の動作。

すみれさんを紹介してもらった帰り道のテルコ。
「塚越すみれ つか… つか誰だよ」

海に行ったときのナカハラくん。
「じゃあそれでいいっスよ、葉子さんは酷い人です、はいこの話おしまい」

ナカハラくんとテルコ。
「幸せになりたいっすね」「うるせぇ、バーカ」

ナカハラくんの写真展。

ラストシーン。

……

愛がなんだ宜しければ皆さんも是非。





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