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「一口いる?」を拒絶されまくるとこうなるのか~今村夏子「木になった亜沙」感想

今村夏子だけは、新刊が出たらすぐに購入する。読む前から面白いことが確約されている絶対的な信頼感がある今村夏子さんだけど、万人受けするとは思っていない。それでもやっぱり人に勧めたくなる。「お願いだから読んでほしい」と懇願し、せっかく購入した本を人にあげることも沢山ある。

今村夏子さんはどういう小説を書くのか。何がそうも私を虜にするのかみたいなことが分からずにいたけれど、「木になった亜紗」に収録されている3つの作品を読んでハッとしたことがいくつかあった。

木になった亜沙

食べて、お願い。私の手から。
誰かに食べさせたい。願いが叶って杉の木に転生した亜沙は、わりばしになって、若者と出会った__。奇妙で不穏でうつくしい、三つの愛の物語。

帯に書いてあったあらすじはこうだ。表題作「木になった亜沙」はタイトルの通り亜沙が木になる話である。

自分が食べているものなど、なんとなく目の前の人に「一口いる?」みたいなことはよくある。その機会をすべて拒絶される亜沙。(なんと!)もしも自分が亜沙だったら…と考えると結構ショックを受けると思う。他人から見たらたった一回の「いらない」かもしれない。けど、本人からしたら何十回、何百回と拒絶が蓄積されていく。それが亜沙を作り出す。

亜沙が与える食べものを拒絶する理由は沢山ある。それは何も「亜沙が作ったものだから」「亜沙が嫌いだから」という亜沙自身の問題だけではない。「その食べ物が嫌いだから」「食べられない状態だから」など、受け取った人自身の問題もある。もしかしたら他の人にあげたらすごく喜ばれるかもしれない可能性は確かにあった。でも、食べ物を断るという行為を一貫して亜沙が体験することによって例えそれが「遠慮からくるもの」でも、「不可能からくるもの」でもすべて「亜沙への拒絶」として映ってしまう。

そのことにどうか、亜沙は気が付いてほしい。亜沙のせいじゃないよって誰か言ってあげてよ。

“このこと”は私達の生活の中でもまあまああることじゃないかなと思った。食べ物を断固拒否されなくても色んな事を拒否されたりはあるかもしれない。でもそれは悲観しなくてもいいということに繋がる。どれだけ拒絶される場面に遭遇しても、「もしかしたら自分には原因がないかもしれない」という考えになれる。「たまたまその環境に居合わせたからうまくいかなかったかもしれない」という原因分散にもなる。“亜沙のせいではないという事実”だけ切り取ると少し元気になれる作品だ。

(おまけ)
「一口いる?」と言うと、たまに三口分くらいもってかれることがある。昔は食い意地が凄いため一口以上の襲来がきてもいいように、その言葉を発する前は覚悟を決めていた。(今は全部食べていいよの精神であげている)逆に、「一口いる?」って言ってもらえたら嬉しいけど、なるべく“一口以下”になるようにという気持ちで頂いている。みんなは何も考えずこの“一口ラリー”を行っているのだろうか…。


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そういえば、木になった亜沙の中にこんな描写がある。(このブロックはこの先気持ち悪い話が続くから、読むかは自己判断でお願いします)


仲間に命じてセミの死骸を持ってこさせた。食べろ、という亜沙の命令に、その後輩は全力で抗った。(中略)ちからずくで口をこじ開けながら、食べて、お願い、と懇願していた。


いや、チョイスよ。

なぜ蝉の死骸を選んだよ。お、おえーーー。
今村夏子の作品の中でセミ関連の奇行を行っている人はこれが初めてではない。ひょうたんの精(「父と私の桜尾通り商店街」収録)にも出てくる。引用しようと思って書いていたけど、気持ちわるいので削除した。気になる方は生の文章を読んでほしい。

とにかく、今村夏子の世界にはセミを食べる人が存在している。

因みに周りの人はその“なんとなくそのカオスな状況”にツッコミを入れない。その人たちの感情は描かれていないし、描かれていてもその状況をナチュラルに受け入れちゃってる。その気持ち悪さに気が付いているのは読者の自分だけなのかもしれないと思うと、さらに怖くなってくる。セミを食べない私がおかしいのか…?(そんなことはない)

カオスをとことん受け入れていく、カートゥーン的な要素が私はとても大好きだ。登場人物たちの“寛容さ”さえ感じる。誰にも咎められない、正義がない世界っていいなー。


的になった七未

驚くべきことに一瞬だけ「感動した!」という瞬間があった。物語の内容に感動したのではなく、今村夏子が物語にメッセージ性のある展開を書いたということに感動した。感動したし、驚いたし、困惑した。

主人公・七未はドッジボールなど“当てられる”ときは逃げて、逃げて、逃げまくりあらゆることから回避するのですが、逃げているとき決まって「ナナちゃんがんばれ」「ナナちゃんはやく」という声援をもらう。七未的には「これは“いつまでも当たらないこと、逃げ切ること”への声援だ」と解釈していたようだが、物語の途中「違う…、これは“早く当たること、逃げる苦しみから解放されること”への声援だ」と思うようになる。

七未のこの一連の流れから「これって人生でも当てはまることかもしれない」と思った。“逃げ癖がついてしまうよりも、困難に立ち向かっていく方がよりよい自己成長へ繋がる”。今村夏子からの人生の教訓、メッセージ性のあるストーリーなのではないか…。力強いメッセージを感じ、とてもジーンと心に染みた。でも、待てよ。今村夏子ってそういうメッセージ性を含めるような作品書く人だっけ。

今まで今村夏子作品は、不穏で不気味な世界が“そこに存在している”小説だと思っていた。そこから何かを得る、元気をもらう、カタルシス効果を期待する、などは一切ない。全うな人間や、素晴らしい人はいらない。物語を読んだ後の感想のパターンもざっくり言うと限られる。「よく分からない」「面白い(笑える)」「気持ち悪い」の3パターンだ(褒めている)。
ほとんどの事情が「よく分からない」という感情に集約されて、リアリティからの解放が心地よかったりする。そして「よく分からない」という闇鍋の中に手を突っ込んで、吟味することこそが至福の時だった。

七未の心境の変化から人生の教訓みたいなものを感じていた私は、しばらく本を広げたまま止まっていた。そのまま読み進めるといつもの不穏さが渦を巻いて、あっという間にその“メッセージ性”とやらはどこかにいった。

ふと思ったけど、これ、自分が物語にメッセージ性を求めるようになってしまっただけかもしれない。

“作者は何か伝えたいことがあるから書いている”という無意識の自分が作り出した概念に合わせようと必死だったのかもしれない。いくら不思議なものを書いている人だって、きっと“主張”があるから書いたのだ。そう思ってしまった。

実際はそんなことはない。今回の七未の心境の変化に“主張”があったのか、なかったのかは作者のみが知る。そしてたとえ“主張”がなかったとしても読者があると言えばあるし、ないといえばないのだ。最終決定権はすべて読者だ、ということを再確認した。

今村夏子が何を伝えたいと思おうが、思うまいが、彼女の書く奇妙で不穏な作品から受け取るものは大きい。役に立たなくても、忘れてしまっても、私は彼女の作品を読み続けるだろう。だって面白いんだもん。

ある夜の思い出

人間が人間らしい動作を行ってないことにはすぐに気が付いた。(なんたって今村夏子作品の常連さんなのだ)

この感覚はとても面白い。人間だと信じていたものが、どんどん形を成してない状態になる。人間だと認識していたものが段々と虹色の「?」ボックスになり、高速で回り続け突然出てくるものは読者によって違うのである。勿論「?」ボックスからは人間がでる人もいるかもしれない。(個人的に、その場合その読者は気がつかないうちに「?」ボックスが回っていたことになると考える)完全にマリオカートではないか。因みに私の場合「?」ボックスから出てきたのは犬だった。

こういうあからさまに「これは○○です」と言わずして、いつの間にか形態を変えちゃうところが素晴らしい。小説の醍醐味でもある。これが映像だったらこんなに綺麗なグラデーションで変わっていかないだろう。本当に不思議な話なのに、なぜか和み、癒され、切ない気持ちになる。面白い体験をさせてくれる今村夏子作品最高!


冒頭で話したなぜ今村夏子が私を虜にするのかということは一言では言い切れないですね。そしていくら語った所で、本の世界に自分を漬けて寝かせておかないとその魅力は体感できないのかも…。是非、「木になった亜沙」読んでみてください!



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