川口由一さん〈前編〉 vol.1 〜愛(うつく)しい人
〜自然農、古方漢方、そして、人生の師である川口由一さんに捧ぐ〜
師が逝去されて1年になる。
これまでの10年も、おおよそ何か大切なときには、川口さんのことを思い浮かべていたように思うけれど、この1年は、川口さんを思い出さなかった日はないのではないかというくらい、いつも想い、そばに感じていた。
川口由一さんの名前を聞いたことがある人は、おそらく自然農の文脈でだろう。
耕さず、農薬も肥料も必要としないで、豊かな実りを得られる農を実現された、近年の日本での自然農の開祖とも言える存在で、菜園や農に親しむ人で、特により自然な暮らしを求めて、という人なら一度は聞いたことがある名前なのではないかと思う。
耕さず、草や虫を敵とせず、持ち出さず持ち込まず。
それが、自然農の3原則のようなものだけど、実際に川口さんに学んだことは、そういった理論を越えてのことの方がはるかに多かった。
自然界というのは自ずから然らしむる。
自分の都合のよいように善悪を分ける相対的な在り方を越え、一体となって畑に立つこと、その穏やかな美しさを体現して見せてくれていた稀有な存在だった。
私が最初にお会いしたのは自然農の畑の見学会だった。それまでに、著書を拝読し、きっとすごい方だろうと思っていたら、本当に、そのまんまの偉大な方だった。時々、本では素晴らしいことを書かれていても、実際は、愚痴っぽく怒ってばかりだったり、仕事や私生活の場で無責任に周囲の人を傷つけていたりする人もいる。川口さんは、反対に、本にはおさまりきれなかった魅力がそこかしこに漏れ溢れていた。
藍染の作務衣に麦わら帽子。白く伸びたあごヒゲを生やし、たいてい目を細め優しく微笑んでいて、見た目にも仙人のようだった。その姿で、陽を浴びながら畑に立てば、
「これが金剛界か」
とでも言いたくなるような眩しさがあった。表現を変えてみれば、
「農家のおじいさんが、作業着で田畑に立っている」
というだけなんだけど、
「なにか大変ありがたいことに立ち会えている」
そういう感覚がいつでもあった。
“そのもの青き衣をまといて 金色の野に降り立つべし
失われし大地との絆を結び ついに人々を青き清浄の地へ導かん”
というナウシカのフレーズが頭をよぎった人も、けっこういるのではないかと思う。
肥料を使っていないが、土壌検査をしたら、肥料を使っている畑よりも豊かだったという畑は、いつも種々の野菜に賑わっていた。自然農は、雑草を刈らないで、草ボウボウのなかで野菜を育てる、と思っている人もいると思うけど(そういうやり方の人もいる)、川口さんの畑は、雑草がありながらも、明らかに手がかけられていて整っているきれいさもある、という不思議な次元にあった。ものすごく古いのに丁寧に掃除されているがゆえ美しいお寺とかが醸し出す雰囲気と似ているかもしれない。
私は、菜園を初めてしばらくは、川口さん以外の色々な方の話も聞きにでかけていた。そのなかで
「自然界だと、洪水とかで定期的に撹乱が起きる。だから、耕さないというのは、かえって不自然だ」
と教えてくれた人もいたし、
「森と違って、畑は収穫し続けるから、失ったエネルギーをある程度補充してあげないとバランスがとれなくなるのは当然。」
という人もいて、なるほど、と理論的にはそちらに納得がいったのだが、川口さんの畑は、実際に、耕さず、肥料もなく、目の前で毎年豊かに実っていた。
正直なところ、どうしてこういうことが可能なのだろう、ということに、正確な答えは出せていない。森の落ち葉と一緒で、刈って敷いた草が土の上でそのまま堆肥化する、というのも納得はいくけど、森と畑では、収穫される実の大きさも量も違う。その誤差は、もはや、土や微生物や野菜たちが、川口さんの愛に応えているんだ、と思っている。
あるとき、畑の見学会で、
「気持ちが落ち込んだらこっそり川口さんの畑に来させてもらってるんです」
というちょっと変わった人がいて(見学会では、おなじみの方ではあるのだけど、川口さんもさすがに「えぇ、そうなんですか?今度は、声をかけてくださいよ」と苦笑していた)
「農作業中の川口さんと作業を手伝っているMさんの笑い声が聞こえて心地よくて、しばらくしたらすっかり気分が良くなって帰りました。」
なんて言っていたが、つまりそういうことなのだろう。
気分がいい人の近くにいると気分がよくなる。
それは、人も、野菜も、土も、きっと同じなんだ。
川口さんの口からは、いつでも
「すごいですねぇ。ありがたいですねぇ。」
と、自然界で起きていること、この世界、宇宙全体に向けての感謝と喜びが溢れ、漏れ出ていた。
いのちといういのちを愛でる川口さんの姿勢に、自然が応えている。それは何も不思議なことには思えなかった。
ちなみに、川口さんから長年学んでいる方の畑の見学もさせてもらったことがあって、その方の畑も、自然と人が調和した美しい楽園のようだった。川口さんの偉大さはここにも表れている、と感激した。
川口さんから学びたい、という多くの人の声により始まった赤目自然農塾は、川口さんが無償で開いた場でもあり、自立の学びの場でもある。耕作放棄地を皆で借り、笹薮状態から開墾したり、道具小屋を建てたりしながら、私が赤目を訪ねた頃は、もう次の方へと引き継がれていて、自律運営されていた。赤目だけでなく、いまや全国各地に、学びの場は広がり、開かれている。
奈良の奥地だろうと、ひとしく現代ニッポン。少しでも他者のニーズをみつければビジネスチャンスにつながるとか、いやその奥のシーズをみつけ、先に差し出すんだ、と、欲望ゲームが繰り広げられるビジネス社会もすぐとなりに一緒にある。毎年のように、海外から社会に変革を起こすという新しい画期的な手法や仕組みが持ち込まれ、何万、何十万円の講座や資格セミナーやが催されては、一時の盛り上がりを見せるも、ファッションのごとく次第に風に消えていく。そして、翌年、名前を変えた何かで同じようなことが繰り返される。
そんななかで、川口さんのしてきたことは、あんまりに素朴だった。
カマとクワがあればできる、というシンプルな農的暮らしに立ち返り、それを教えることも、
「求める人に、ちょっと先を生きた人間として、それを伝えているだけ。」
として、けっして自分に特別な付加価値をつけようとはしなかった。
川口さんが、農薬も肥料も使わない田畑に切り替えてから、お米が実るのには3年。野菜が実るのには10年かかったという。その歳月の試行錯誤と忍耐を思えば(実際、ご先祖の土地を売ってなんとか切り盛りしていた)その分の講座料くらいとってもいいだろうとか考えてもよさそうなものを、自然の恩恵を充分に受け取り、満たされていたがゆえだろうか、誰かから何かを取ることを考るのではなく、むしろ、求めるひとに、貧富の差なく、ひとしく学びを届けられることの方を大事にされていた。
「困っている人がいるなら助けてあげたい。」
「自分が持っていることが役に立つなら、使ってもらえたら嬉しい。」
そういう、全然目新しくもなく、皆も一度は感じたことがあるような思いこそが、農を越えて、より大きな文脈で大勢の人の心を目覚めさせ、救っていた。
青い鳥みたいに。
ここにはない何かが満たしてくれると、外に外に、新しいものに、知らないものに、と目を向けるけれど、実際、本当に必要なものは、昔から長い間あって、見た瞬間、触れた瞬間に「懐かしい」と感じられるもの・・・。
色々な情報で頭が溢れているわたしたちのなかにも、確実にそういうあたたかい記憶、思い出みたいなのがあって、川口さんのその「普通のあたたかい対応」が、人々を目覚めさす。作為なく、ただただ、親切であるということ。そういう世界に自分も生きていたのだ、ということを思い出す。
vol.2 へつづく
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