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桜の頃に降る雨に

桜の頃に降る雨には、いろいろな名前があるという。催花雨、花の雨、桜流し、桜雨、などなど。

昨日、4月中旬ほどのあたたかな日差しの中で眺めたほぼ満開のこの桜も、今日の雨に花びらを重くしていることだろう。冷たくないその雨はやわらかく、その花びらを伝う雫は若葉を映す光を放つ。さして音を立てない雨に油断して傘を手に出歩いたが、ほんの15分ほど歩いたところで気づいたらズボンがびしょ濡れで色を変えていた。それでも悲惨な気持ちにならないのは、この雨のやわらかさ故だろう。雨はさまざまな植物を潤す。やわらかな土に沁みいる水は、昨日植えたほうれん草や蕪、ジャガイモや大根の種を喜ばせてくれているだろう。細いネギの苗も土にしっかり包まれ安定してくれるだろうか。土の香りを感じながらそんな想像をするのもまた心地よい。

今朝はひさしぶりにアメリカ人の友人と話した。同い年の彼女とは、身体に訪れる変化や家族の境遇など重なることが多い。しかしそんな話は数年前には一度もしたことがなかった。いのちの時間はいつでも進行形で、時に私たちに普段より多くの関心をそこに向けさせる。その時期が重なる仲間とつながり話すことが、私のいのちの慰めになる。おかしいな。いのちにとってどの瞬間にもとても大事な何かの営みが行われているのだろうけれど、時に人は、それを感じるとる眼差しが曇るのだ。そしてふと書き留めたこの「眼差しが曇る」という表現は私に「窓を開け、新鮮な空気を感じる必要」を伝えているようにふと思えたのがたった今訪れた小さな発見。そうか。新鮮な空気を欲していたんだ。そしてその空気とは、このやわらかな雨が降り注ぐ大地や小川、そして鳥たちの囀る河原を満たす、この空気のことにほかならない。

新鮮さは、足元にある。結局いつもそこに帰ってくるように感じる。

さて、その友人が話してくれたことは、COVID19を契機として増幅した社会的分離、そしてそれが更に凶暴化しているように感じるという、アメリカ社会に漂う空気感のことだった。

私たちは分離の背景にあるストーリーの競争について話した。私たち一人ひとりの固有の人間性を塗りつぶす力を持ったストーリー。それがまるで人格を乗っ取ったように正義を振り翳す。どちらの主張の側にもそれは起こりうることで、実際彼女自身、自らが盲信したストーリーによって、大事な友人や仲間たちとの関係をたくさん壊してしまったのだという。その痛みは今もある。そしてその体験から学んだことを言葉にしようと、彼女は今、奮闘している。その痛みを経てなお希望のために言葉を綴ろうとする彼女に感銘を受ける。

このようなできごとが起こる前、彼女には、彼女を熱中させるいくつものテーマがあったことを私は知っている。それはまったく、このような固く重苦しいテーマとは違う質感のものだった。けれども今、彼女を突き動かしているのは、自らが体験したこの痛みを伴う経験のことだ。誰からも関心を向けられない孤独な痛みは、さらなる痛みの連鎖を生む。だからこそ彼女は、今その作業に向き合っているのではないか。直接尋ねはしなかったが、私はそのように感じとった。

自分らしさとは、内側に広がる世界から自然に溢れ出すものではないか。私たちが耳を澄ますことでこころの奥底に感じることのできる水の響き。そこに、自分にいのちを与える神聖な力が宿っているように思う。

一年少し前に書いた文章を、今日の日記の最後においておきたくなった。

雨音が響く。また、海辺のまちに帰ってきた。この土地の雨は、汐風を抱いている。