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フェリシモから500色の色鉛筆が発売された頃
壁一面に並んだ様が圧巻で、憧れだった。

500色。
その中でも、いろんな組み合わせで
交わり合って、新しい色が生まれていくのだとしたら、可能性は無限大。

何色が好き?と聞かれて
「青」と答えていた子ども時代から、しばらく経って
1色に絞れなくなり、それを自覚したのは短大生の時で
色彩学を学んでいた頃だった。

「青」といっても、いろんな「青」があって
その中に私が好きな「青」もあるけれど
何なら
「青とその隣り合う同系色により表現された2色の組み合わせが好き」
好きな色をそう表現することが
当時の私にとってのベストだった。

すでに混じり合って出来上がった
もう、独立した1色として名前の付いた「青」っぽい色も
隣に、どんな色があるかで、その印象は変わってくる。
より青が濃くなったように感じたり
ちょっと緑っぽくなったり、紫に寄ったり。

そもそも、私が感じた「青」でイメージしたものと
誰かがイメージしたものは
ピッタリになることは無いのかもしれない。

それは「色」に限らない。

「言葉で、感情を表現することは出来ない。全ては、比喩である。」
そんなこと言った人がいた。

確かに、そうだと思った。

「嬉しい」や「悲しい」「美味しい」とか
分かりやすい形容詞で表現してしまえば
それが網羅する範囲で、その感情は、区切られてしまう。

本当は、人それぞれに、その範囲は異なっていて
それまでの経験、背景や先入観
その日の気分によっても
変わったり、影響があるだろう。

「伝えたいこと」が明確にある時
それをそのまま伝えられたら一番いいのかもしれない。
伝えた満足感は、伝えたかった側のもので
相手に渡ったその言葉は
相手のフィルターを通して、分析される。
本当に伝えたかったことが伝わったのか?なんて、わからない。

ただ、理解したいとか、受け止めたいとか
そういう歩み寄りがあれば、伝わったような感覚に。
もはや、伝わっていなくても
その距離感で居てくれるのなら充分だと
感じてしまうのかもしれない。

大好きな青で、作品として表現するとき
同系色でまとめあげると
落ち着きと安定感があって「好きな感じ」になる。

例えば、私が「青」担当だったとして
「青緑」担当の人と何かを作ることになった場合
おそらく、共感できるところも多く
居心地が良くて、作り上げる過程も楽しいのかもしれない。

「青」と「黄色」
色相環で対局にある補色の立場のような人とは
また、その二人の間で、補い合えるところがあったり
自分が持っていない要素を知ったり
発見できたり、刺激の多さからの楽しさがある。
それぞれの色が引き立て合えたりして。

10人10色。
世の中には「同じ人」なんて居ない。
違って当然だし、こちらのルールも感覚も
通じないことが、ほとんど。
それでも、伝えたい、共有したい、共感したいという思いから
対話を重ねながら、分かり合える接点が
定まってくるんだと思う。

全てを理解することなんて難しいことを知ると
誰かと、重なった瞬間が
如何に貴重であることかも分かってくる。

比喩でもいい。
分かりやすい言葉でもいい。
そこからの「伝えたい」気持ちを大切に
自分の中での感覚を確かめながら
自分にとってのベストな表現を探す旅を続けていけたら。
相手に本当に届く、答えも見つかるかもしれない。

当時、高価に感じていた500色の色鉛筆も
大人になった今、手が届きそうなところにある。
それでも、そこを越えないのは
自分の傾向として、同じ色ばかりを使ってしまいそうな気がして
その色だけが、短くなっていくのが寂しいから。
そして、それを意識したとしても
やっぱり、全部の色を活かしきれる自信が無い。

得ること、所有することでの満足感よりも
それを活かせない歯がゆさや、自分の力量の無さに
押しつぶされてしまうからだ。

あなたの好きな色は、どんな色?

あなたと出逢った意味があるとしたら
私の役割は、何色だろう?

そんなことを考えながら
私は、製作室で待ってたり
出掛けたりして
いろんな色を見て体感して学びながら
可能な限り、柔軟でいたいのです。

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