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いつかの誰かに
めがね橋から、メディカルセンターまで
電車に乗る。
年配の方から手招きをされ
空いた隣の席を、とんとんと
座るように促された。
「友達がね、電車内で転んで、骨折して、車椅子生活になったの。空いてる時は、座りなさい。年なんて関係ない。」
そう、おっしゃった。
自分より若いお友達だったそうで
元気な頃は、世界各地を旅行されるような、行動的な方だったとか。
自身も、旅行に行ったりして、余生を過ごしてきて、次は、能登に行こうと思っていたら、年始の災害。
「今度、なんて無いの」
今から、駅前の歯医者さんに行くんだけど、3ケ月に1度の検診で、頑張って通っていて、そのおかげで、82才になった今でも、全部自分の歯とのこと。
その後、乗り換えのため、中華街で下車される。
その様子を見ていた、友人に「知り合いやった?」と聞かれる。
長崎だと、日常の光景かもしれない。
歴史的な背景もあるだろう。
他との距離感。
隣に座るなんていうことも、日常。
とても、とても、この頃の私の思考や暮らしと近い話題に、私が、受けとるべきものだったんだと思ってしまう。
拒否ることも
はね除けることも
出来たかもしれない。
ただ、隣に座って、相槌をうって、頷いて。
例えば、それだけで、彼女にとって
誰かに、言葉や思いを残せた、伝えられたと
ちょっと、ほっとするのだとしたら
それで、十分なのかもしれない。
いつかの自分と重なって
いつかの母と重なって
見過ごすことは出来なかったんだとも
思ったりした。
余白が無ければ
そういう場面に慣れてなければ
出来なかったことかも。
慣れって、いつから?
1回目があってこそ。
一瞬を見極めていく。
チューニングしてみる。
私は、そうやって
誰かからのメッセージを受け取って
未来の自分へ
或いは、必要な人へ
それを繋ぐために
蓄えて、鍛えていってるのかもなぁって。
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